解説


三井石炭鉱業(株)砂川鉱業所

 
        三井砂川鉱は三井鉱山が北海道で初めて本格的に開発した炭鉱である。
         明治30年代、三池や筑豊に進出した三井鉱山合名は次いで北海道への進出を開始した。まず
        砂川周辺から探鉱を開始した同社は明治32年に砂川や美唄の鉱区を獲得したが、当時は三池
        鉱への投資が増大しており、これら鉱区の開発は見送られ続けた。
         大正3年7月、三井鉱山は砂川出張所を設置し、砂川鉱の本格的な開発に乗り出した。大正6
        年、まず一坑の出炭が開始され、翌7年には二鉱が操業を開始した。その後も砂川鉱は隣接炭
        鉱の買収や新坑の開発を行い、規模を拡大し続けた。
         こうして、昭和に入ると砂川鉱は年産100万トンを超える大炭鉱へと成長したのである。
         砂川鉱で特筆すべきものに採炭方法がある。多くの道内炭鉱同様、砂川鉱の炭層は急傾斜な
        ものが多く、採炭の大きな障害となっていた。同鉱は試行錯誤を繰り返した末、昭和2年に斜向
        長壁充填採炭法を開発して採掘に大きな成果を上げた。同鉱はその後も様々な採炭法を開発
        し、昭和33年には水力採炭を導入する。これは水力で炭層を破砕し、石炭を水と一緒に地上へ
        吸い上げるという方法であり、砂川鉱の水力採炭は特に高い評価を受けた。
         採炭技術の開発を進める一方、砂川鉱は坑道の集約を図った。ます昭和23年に第一立坑を
        開削し、ついで昭和43年には中央立坑を開削した。それと平行して劣等鉱区を第二会社化等
        によって分離した。これによって最盛期には13坑を数えた砂川鉱は、最終的には1坑体制にま
        で集約されることになる。
         同じ頃、三井鉱山は石炭生産部門を三井石炭鉱業(株)として分離し、砂川鉱は同社の管轄下
        に入った。
         このように様々な技術革新や合理化を推進してきた砂川鉱であるが、時流に逆らうことはでき
        なかった。昭和61年11月、石炭鉱業審議会は第八次答申を発表。これは鉄鋼業界が行ってきた
        国内原料炭の引き取りは「最終的にゼロ」、電力業界が行ってきた一般炭の引き取りも「原則と
        して同様な傾向」とするものであり、国内炭撤退を強く打ち出すものであった。
         この答申を受け、三井砂川鉱は昭和62年7月14日閉山した。これは第八次策の下では初の閉
        山であり、この後大手炭鉱の閉山が相次ぐこととなる。
         こうして炭鉱としての生涯を終えた砂川鉱であるが、数年後に思わぬ形での再生を見ることに
        なる。同鉱跡地に地下無重力実験センターが誘致され、坑道を利用した無重力実験が開始され
        たのである。中央立坑は無重力を作り出す落下塔となり、第一立坑は坑内設備の補修に用いら
        れた。この施設は世界最大規模のものであり、珍しい廃鉱利用策として注目された。
         しかし、後に最大の顧客であった国の実験が終了し、地下無重力実験センターは平成15年に
        廃止されてしまう。それにより両立坑の坑口は完全に密閉され、中央立坑は残されたものの第
        一立坑は解体されてしまった。
         砂川鉱は、二度目の「閉山」を迎えたのである。    





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