目覚めると、牛の革で作った鞄から取り出した干し肉を噛んだ。
以前遠い親戚から貰った中国からの輸入品だという
『塩』がふりかけられていて、少し辛味が強い。
美味しかった。噛み千切った。とても、硬い。










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草原情歌




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セトもチノと一緒に起き出し、草を食んだ。
やはり牛革で作った水袋の水を彼に飲ませると、
チノは昇って大分経った太陽を見ようと、首を擡げた。
肩に止め具のある服は温かく、日なたの匂いがする。彼にしては長い間眠っていた。
やはり、ナイのことで両方のこめかみの辺りに重みが引っ掛かっている。
振り払おうと頭を振ったが、脳髄が揺れるだけだった。
それを見ていたのか、

「…セト」

―――セトが、チノの頬に鼻を擦り寄せてきた。
その後真正面から、チノのことをじっと見つめる。
濁りの無い黒い瞳。
チノもセトもそれを持っている。
四つのそれらがぶつかり合う様は、意思の疎通に似て見えた。
風が吹く。
彼が今感じているのは、セトの安穏とした意識だけだ。

「ありがとう、セト」

得られた安心からチノはそう言い、彼の頬を撫ぜ返してやった。

再び風が一吹きしたときには彼は既に、馬上の人となっていた。
次の風。もう、そこにはいない。

少し、雲が流れてきていた。

雲は南下するチノとセトを追うように地平線の方からせり上がってきたが、
駿馬・セトには追いつけなかった。
雨が降ってはまずいのだ。チノは急いでいた。
雨は確実に、周到に、狼達の足跡を見難く、彼らへと行き着くための手掛かりを隠滅する。
白雲ならばいいが、あれは濃い灰と青の色をした暗雲も連れ立っている。

急がねばならない。
ひたすら目玉を動かし、草、気、土に生じたわずかな変化を見極める。
ただひたすら、獣道を追った。
太陽も又、彼らの頭上にせり上がってきていた。


衰退した教えがある。
その宗教が建てた石造りの喪の搭がある。こちらでいう、卒塔婆だ。
それがわずかに赤いのは雲の合間から射すこぼれた日の光のせいだ。
だが、この赤は違う。
本来温かい筈なのに、その赤は、冷たい印象に満ちている。
そう、チノは思う。
実際にそれは、『死』という、身も心も凍えさせ、背筋をぞっとさせるような現象を
人の想像の世界に挿入する。

(―――…ああ。)

実に、その液体は未だ、幾らか温かいのである。
そしてそれを溢れさせ流出するものもまた、まだ、温かい。

肉塊だ。死体だった。
大きい方―――狼の方は、一度びくりと跳ねたが、
それからは冷たく硬くなっていくばかりだった。死後間もない。それが分かる。
その場には矢も落ちていないし、狼の身体には、金創も無い。
代わりに、驚くほどくっきりと、噛み痕が残されていた。

浅めの指紋にも溜まり込み、指先から滴り落ちる。
それは。大量ではないが、中々乾かない。
ツチリスは土に帰した。爪の間に入り込んだ土も取れない。
それでもチノは、そのまま手綱を握った。
濃紺の布地の二箇所がどす黒くなり、
被った狼の革の額にセトのものとは反対色の十字星が出来上がり、
盛り上がった両目の麓に、紅の隈取のようなものが彩られた。

片手でセトの首を撫でようとして、やめた。手が赤い。
血が、ついている。代わりに手綱を力の限り握ることにした。震えている。
腰に佩いた剣を手にしたいと、うずうずしている。
チノは無視した。さらに汗と血とを握り締める。
チノが追うものは血の匂いと、そしてついには、気配になっていた。


近い。それも、限りなくだ。
だが、おかしかった。血の匂いが一向に薄まらない。
それ所か、濃くなっていくのだ。

(一、二、三…六、七)

…いや、それよりも多い。今、八を越えたところだ。
全て狼の死体だ。
チノの見間違いではない。数え違いでもない。
見れば殆どが、茶系の毛色をしている。

(九、)

今度は狼ではなく、山羊だった。黒い。
足に、赤地に黄の紋様入りの布切れ。
群れからはぐれたのだろう。はらわたが数十寸か、露にされていた。

(十)

それを追うと―――追うまでもなく―――傍らにまた、狼の死骸が横たわっていた。
山羊の腸の先端を作り、咥えている。
羊と狼の血で出来た池は、隅の隅から凝固し始めている。

死体と死体との距離。
一匹目から二匹目より二匹目から三匹目、
二匹目から三匹目より四匹目から五匹目。
順繰りに、間隔が短くなる。

チノは数え直してみた。
今までの道程で目にした狼の死体の数は、十匹。
十匹も死ねば彼らの群れは壊滅状態に近いはずだ。
おかしい。ずっと考えていたことだが、何故こんなにも、狼ばかりが死んでいるのか。
それも、狼のものであるとしか思えない牙の痕を、その屍肉に残してだ。

その死骸の中に、あの白い狼の姿はない。
ならば十匹の茶色い狼達を殺したのは、あの狼なのか。
では、何故。
―――…何故。

「…!!」

百足。いや、蜘蛛か。
何百匹ものそれらが目元を掠り、首筋を弄って、
雲と風とチノの向きとは逆に、走り抜けていった。

そんな感覚がした。
ぞろりとするような、ぞわぞわとするような、嫌な感覚だ。
蟲だけに蝕んでくるような感じがする。

自然に、喉が開く。
まずい、と、このままでは、と、チノは思う。
呑まれるのだ。既に、呑まれ始めている。
張り詰めた暗い空気を強く吸い込み、それを飲み込むと、彼は歯を食いしばった。

セトの足元の、草。
青々としているが、薄暗闇に蝕まれて、今にも枯れてしまいそうな気がした。

(どこ、だ)

そう思った瞬間に、場所は発覚した。
明らかな殺気。セトは退かない。
馬首をそちらに向ける。
がさりと、草原の一部が波打つ。

見開かれたままのチノの瞳は瞬き一つせず、何百何十分の一かの速度で
ゆっくりと蠢いているそれを見つめる。
だが、捉えることは出来ない。
蠢く毎に繁茂した草は点々と赤く染め上げられていく。
夕焼けとは違う紅と暗闇に、侵されていく。

眼前一面に張り詰まった氷原。
徐々に、盛り上がっていく。
徐々に、死の色と命の香りを撒き散らす。
チノは止めたようにしていた息を、大きく吐いた。―――徐々に。

正にそのとき、薄氷は弾け飛んだ。
闇に一閃の光明。
こちらに向かってくる真っ直ぐな意識。
敵意。
殺意!
氷柱つらら!!


「く、うっ!」

力の限り、セトの首の骨が折れるのでは、と後で思い返す程の力で手綱を引っ張って、
物凄い勢いと速さで旋回させた。

何らかの切っ先に貫かれる感覚が走ったのは眉間だったが、
実際に痛烈な刺激が広がったのは、右腕からだった。
獣の体毛にも血は飛び散り、その赤さを増させた。
一挙の動によって打ち砕かれた氷に隠れていた草が
また時の流れに沿い始め、風に揺らぎ、再び蠢く獣を受け入れる。
チノの生き血で尚も赤く染まる。

踏みつけ、蹴りつけて、引き剥がした。
血の匂いが一層濃くなった気がした。

「…は、あ」



―――赤い狼。



チノはそう思ったが、すぐに違うと分かった。
真っ赤な毛皮の合間で、白く美しい毛並みが、闇の中輝いたのだ。風にも揺れる。
痛みすら忘れて束の間見惚れてしまった。
その狼は老骨の愛羊・ナイを、命ごと奪った群れの頭目だというのに。

チノはそれを思い出すと、一気に頭に血が昇っていくのが分かった。

その身体の赤色は、仲間を殺したときの返り血か。
口元を湿らせる赤は、ナイと自分との鮮血か。

目は、かっと見開いていた。相手も同じだ。
この感情は何かと、火のような怒気の片隅に残った理性のようなもので、チノは思った。
怒りだろう。悲しみだろう。悔しさだろう。
何故だろう。哀しみと、寂しさとも、混ざっている。

落ち着け、と思った。腰の剣の柄に、右腕が、風切って伸びる。

静まれ、と思った。暗黒の上に腹ばいに立つ赤い獣鬼を、ぎっと見据え返した。

鬼が低い唸り声を上げる。

チノは、血と汗を握った。

―――赤い、氷柱!!

還れヤウチノっ!!)




「………、あ。」

驚くほど―――笑ってしまうほど可笑しな、間抜けな声を、チノは漏らした。馬上のままだ。
セトは一歩として退いていない。
いなないたのは聞こえたが、狼の吠えにそれは殺された。
いや、狼が吠えた声を、セトの声が、殺した。

そして、自分が狼を殺したのだ、とチノは気が付いた。
茫洋としたまま視線を下げてみれば、
そこには顎とその牙より上の目や鼻、耳、頭蓋半分の無い、
血染めの狼か犬のようなものの死体が落ちているだけだった。

自分が手にしているのは水平に寝かせるようにした、鉄で出来た、剣だ。
付着した血が少しずつ、ぽたり、ぽたりと、滴り落ちる。
滑って飛んできた血は目に入った。
そういえば瞬きをした覚えもある。一度だ。
また、歯牙の欠片かけらが頬を掠めた。
ぷしゅ、と血が横に噴き出し、頭巾を湿らせた。

(…終わった?)

心の中で問うが、答える者はいない。

終わったはずだ。
狼を殺し尽くした狼を殺したのだ。
それ以下の気配はないものと思った。

所が、いるのだ。
セトは死体より先の草茂みを、じっと見詰めていた。

何が、いる?

そう聞きたかったが、口がぱくぱくと音を出しただけだった。
もう一度してもそれだけだった。
セトの馬鞍から飛び降りる。
転げてしまいそうになった。大地を踏みしめたのはいつも通り、足だった。
膝の軟骨が徐々に動きやすくなっていき、血流が少し強くなるのが分かった。


母狼。
いや、母犬だ。狼ではなく、犬。
下っ腹をふくらませた雌のモンゴル犬が、そこには横たわっていた。
肉は痩せ衰えている。もこもことした豊かな毛並みが、途切れた部分がある。
脇腹が血塗れだった。
ついでに言えば、肋骨が肉からはみ出している。
尖ったその骨もまた、血で真っ赤だ。

彼女が舐めているものを見たチノは戦慄した。
目をこらして見て、やっとそうだと分かるそれは、四つ足の赤ん坊だった。
だが、肉塊だった。
それでも彼女はその産毛にこびり付いた赤く湿った液体を、舐めとってやっている。

地面にはまた、赤い色の池があった。
脇腹よりもそこのほうが真っ赤で、どす黒い。だが、闇には溶けない。
はっきりとチノの目に映り、くっきりとチノの死角を刺し貫いてくる。
知覚をも、侵す。背負った弓矢がとろけそうな感じに襲われた。脳髄が痺れていく。

ふと、母犬が顔を上げて、チノを見上げてきた。
素朴な瞳。
潤んだ瞳。
何かを乞うているかのような、眼差し。
知覚をも、犯す。

子犬…否、子犬だったもの・・は、ぴくりとも動かない。

(分からない…分からないよ、セト!)

愁訴。
懇願。
哀願。

(分から、ないよ…父さん!)

憎悪。
哀感。
後悔。
哀、愁?
寂…慮?
―――羨望?

(ああ!!)

また、感情が、溢れて。




―――どかっ




チノは、いたたまれなくなり、斬った。
斬撃の感触が掌に満遍なく伝わった。今度は、ひどく生々しい。

それからすぐにセトに飛び乗り、走った。
離れた。逃げた。目は、ずっと瞑っていた。
それでも涙は、流れる。











  










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