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父が使っていた強めの弓と、矢を十五本。背負う。 それに湾曲した太刀を授けられて、チノは出発した。 父は、新しい弓を作って、それを使い、万一に備える。 父は、弓にしても矢にしても、作ることをチノには手伝わせなかった。 それよりも彼の馬を秣で磨いてやるか、鐙や鞍が傷んでいないかを見ていろ、と言った。 ――――――――――――――――――――――――― 草原情歌 ――――――――――――――――――――――――― 辺りは薄暗く、落日の光で、何もかもが赤い。 というより、橙色に染まり上がっている。 色は全然違うのだが、チノはそのゆらめいた橙の円形に、 老羊ナイの血を思い出した。 いつもならこれくらい綺麗な夕陽には―――そう。 反応を示したとしても、感嘆の域くらいしか漏らさない。慣れっこだった。 あそこに向かって、あの届きそうで届かない場所に向かって、 試しに幼馴染と一緒に走ってみようかとかしか思わない。 これらの意思・挙動は、言うなれば『正』のものだろう。 また、いつかの青年のことも思い出された。 陰りつつある橙色の光の中で、チノは頭巾を被った頭を振った。 はち会う前からこれでは、狼追いは、失敗してしまう。 あちらの気を呑まなければいけないのに、こちらの気迫が先に消沈してしまう。 こんなことでは死人の魂に引っ張られるぞ、と、 父の口調を真似たようにチノは思い直して、馬腹を締めた。 彼の愛馬セトが短い草の間に見える乾燥した大地を蹴り上げて、駆け出す。 速度は先程の歩みの倍にも及んで見えた。上下運動は著しく少ない。 負を振り払うが如く、チノとセトは暫時、走り続けた。 大地の残り火は薄らみ、やがて消えた。 が、空はまだ青銅の色をしていて、視界も暗くなりきってはいない。 この間に、チノはセトを歩かせ、捜した。 ずっと、じっと、地面を眺めながら、進む。 それを続けている内にセトが自ら馬首を返し、一方向に歩き始めた。 馬上の人よりも先に見つけたのだろう。 犬の糞だ。 それを見てチノは、 (そう遠くないな) と思った。それから、見当をつける。 よくよく見れば馬蹄の跡のついた草の横の茂みに、 ばらばらにだが、獣道―――読んで字の如く、積雪などに残る、 獣が通った痕跡―――が、出来ている。 彼は気を急いて、腿がセトの腹を締めてしまわないよう、注意した。 狼達の群れは、もう、そう遠くはなさそうなのだ。 どこから現れるかは分からない。 ひょっとすると、既に自分を『獲物』として、狙いを定めているかもしれない。 彼は、自分の周囲に、自分の気を張り巡らせた。 何も見逃さず、何も聞き漏らさず、何者も、逃がさない。 そのときの彼と彼の周囲は、湖になる。 または、波風一つ無い海になる。 風が見え、鳥の羽音を聞く事が出来るような状態になるのだ。 普段混在しないような異物や成分には即反応する。 そういう湖で、海に、彼は変わる。物心ついたときからそうだ。 彼は、気配に非常に聡い。 襲撃、奇襲の疑いは杞憂だった。 先程言ったような『異物』の類はあれど、敵意や殺意といったものも、 意識も、見当たらない。見つからない。 (もう少し先かな?) 状況と心境におよそ似つかわしくなく、柔らかに考え、辺りをゆるり、ぐるりと見回す。 風が草を擦らせて、音を奏でているだけだ。 わずかな雲は北から流れ、今向かっている南へ流れていく。 緑の大海原に波を起こすそれも同じだ。 今のチノ達からすれば、それは背中を押す追い風だ。 狼の群れにとってもそうだろう。 彼らは追い風を背負って、彼らの集団を動かしているのだろう。 追い風は、後ろから来る者にとっての手掛りものの一つである『匂い』を残さない。 追撃の種となる見えない足跡を消す事が出来る。 今日の風は、チノが出発するより大分前から、一定だ。 頭のいい連中らしい。 いや、いいのか悪いのか、よく分からない連中だ。 外的に助力するものを一つ消しておきながら、またひとつ、わざわざ作っているのだ。 ならば一団を統率している狼が、切れ者だということだろう。 追従する狼の、少なくとも一匹には、そういう機転が利く頭がない、ともなる。 チノは風に沿ってセトを歩かせながら、奴等がどんな連中だったかを思い出してみた。 全体的に毛色がまとまっていて、殆どの犬が茶系だった。 (一、二、三…六、七。) いや、そんなにはいなかった。群れとしては小さめなのか。 だが、その方がいいとチノは思った。狼の立場に立った場合としては、だ。 小さいだけに伝達も速いし、機動力も上がるのだ。 各々の能力が高ければ、不足要員もいくらかは補える。 それらを率いるのが頭の切れる者ならば尚更だ。 そういえば、あの見事な退陣をさせたあの大きな白い狼は、 羊を追って馬に追われ動き回る仲間達の殿に着いて、 距離をおいたそこで、ただじっとその場の状況を見守っているようだった。 今よくよく思い返せば、あれは、大局的にものを見ていたのだろうかとさえ思える。 ―――つまり、 (あの狼が、大将なんだ) 絶えず戦乱を続けてきた漢の民族―――隣国・中華の人―――ではないが、 チノは彼をそう例えてみた。 となると、彼らはそれに率いられる一つの小さな軍隊ということになる。 あの、大将。白い狼。 馬の一種にもあるような斑点のような模様は灰色がかっていて、 更にその毛並みは夜明けの月の光を反射して、輝いていたような気がする。 チノは彼を、一、二度、ちらりとしか見ていなかった。 ぞくりとする暇も無かった。 逃げ惑う羊を追い集めるのに奔走していた。 「…あれ。」 視界が暗い。 色々と考えている間に、夜が更けてしまったのだ。 それに漸く気付いたチノは、鐙に足をはめ込んだまま、立ち上がった。そして見渡した。 空気に少しばかりだが潤いがあるので川は近いはずだが、ゲルは見当たらない。 草、山、地平線のどれかしか見えない。彼は、失敗したと思った。 野宿は嫌いではなく寧ろ好きだが、狼狩りや狼追いのときとなると、話は別だ。 狼達は餓えていれば、旅人くらい平気で襲うのだ。 たった一人での単独行動ならばその可能性は大いに増す。 人間二 一匹に対しては、死角を突いて攻撃し放題なのだ。 二人か一人かで狼と人との戦略の優劣は大きく異なる。 一人とは、それ程危険なのである。 しかしチノは別に恐れているというわけでもない。 なんとなくだが、今夜は彼らに追い付けない気がし、 彼らもそんな所にいる自分をわざわざ襲いには来ないだろう。 考え事の所為でセトの歩みをのろくしていたのは、怪我の功名だった。 おかげで後者の利を得られたのだ。 よい方向に物を考えた。悪い気は全くしない。 野宿は、久し振りだ。 気候が暖かい日の夜は稀に外で寝ることがあったが、そういえば最近はやっていない。 満天の星空を仰ぎ、チノはセトと草の床を共にした。風は、いつもと変わらなかった。 帰 前 次 |
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