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草原の暗い緑が、明るく照らし出される。 若草色になる。新芽だ。 昇る太陽を背負った山は黒く姿を現し出す。 せり上がってくる。夜明けだ。 少年は、頭を掻いてみてから、狼を象ったような形の毛皮の頭巾を 被ったまま寝ていたことに気付いた。 激痛に眉を寄せた。腕の血は、止まっている。 それから、慌てて、もたれかかっていたものを振り返った。 寝起きの目にぼんやりと映るものがある。瞼を擦って、もう一度見た。 そこにいるのは、額に十字の星をもった、白馬だった。 全身の毛並みに青みがかかっているが、星の部分は真っ白で、たてがみは濃紺に見えた。 白馬ではなく、青い馬だと言ってもよかった。 馬が無事なのを見て、その少年はほっと安堵の溜め息を吐いた。 少年の頭巾も、見れば、水色がかっている。 「ありがとう。」 言は短い。 笑みを含んだその声は、どちらかといえば、青年らしく聞こえた。 実際にはどちらなのか。分からない。 兎に角彼は、薄く明るくなってきた空を見上げた。 空気が重い。珍しく、雨が降りそうだった。 ――――――――――――――――――――――――― 草原情歌 ――――――――――――――――――――――――― 少年は、チノは、その日初めて狼追いをするように言われた。 それまでは羊や馬、山羊の群れをまとめたり、導いたり、 また、彼女達の乳を集めていた。 馬乳酒も作れるが、馬と駆ける方が得意だった。 馬と語る方が好きだった。馬頭琴を奏でるのも、彼は大好きだ。 狼追いは、危険だ。少なくともチノはそう思っている。 チノの父も母も、その兄弟姉妹達も、その父母も、そうだと思っている。 どこの狼も大抵そうだ。彼らは群れを成して行動する。 また、雑食だが、肉の方を好む。 彼らは遊牧民が擁している羊を食べてしまうのだ。 チノの家族の 夜中のうちだったが、羊達が大勢で大声で悲鳴を上げ、 狼達も大声で吠え立てていたので気付いた。 チノが羊達を集めて一塊にしている間に、チノの父親が狼達を追い払っていた。 その内、一際大きな体躯の白い狼が一吠えすると、狼達は退いた。 退き際はとても鮮やかだった。チノは見たことがないが、あたかも浜辺の引き潮のようだった。 やられたのはナイだとすぐ分かった。足に怪我をしているのは彼女だけだた。 それに、老いぼれだった。逃げ遅れたのだ。 死体は狼達に持っていかれてしまった。 今頃はもう、彼らの胃袋に収まり、彼らの血肉となっていることだろう。 「お前が生まれてから、襲われたのは三度目だな」 歯噛みしている所で、父がそう言った。チノには覚えがない。 彼は十六歳だ。十六年間に三度は、少ない気がした。 「二度とも、チノが赤ん坊だった頃だ。 羊が鳴くより早くお前が夜泣きをした。 お陰でうちの羊は、一匹も死なずに済んだ」 「父さん。その話、もう数え切れない程聞いた」 「ああ、何度だって話してやるぞ。 チノはとても賢くて…そうだな…流れ星みたいで。 まるで、神様の子供だ」 それも物心ついたときから聞かされてきた話だったが、 チノには幼い頃から実感が沸かなかった。 しっくりとこないのだ。それに自分は神様の子供などではなく 父さんの子供だとも思ったが、それは言わずと知れたことだったので、黙っておいた。 そうだ、神様の子供であるわけがないのだ。 現に羊は一匹死んでしまった。 もしも神様などだったとすれば、 息を一吹きするだけで狼の群れの一つや二つ、軽く吹き飛ばしてしまう。 その子供だったとしても、突風を起こすか、一面の草全部を 狼達などいとも容易く追い払ってしまえるはずである。 (僕は、ナイを守る事が出来なかった。) 老いぼれだった。群れの中でも随一だ。 だからこそ、安らかに眠ってほしかったと、チノは思った。 父の話を聞く傍ら、ナイのものだと思われるふわふわの羊毛と、 真っ赤に染まり上がった羊毛と、草を見下ろしていた。 チノの白馬も、同じ所を見つめていた。 その朝初めて、チノは、狼追いをしろ、と言われた。 「しろ」という命令形ではなく「してみろ」という軽い試みを促すような言葉遣いだったが、 チノには「しろ」と言われたように聞こえた。 そういう音を父親の唇が発音してみせなくても、その向こうに、そんな意思があるように見えた。 「もうチノも、十七になるしな」 彼ら父子は羊の群れが襲われてから、ずっと見張り番をしていた。 かれこれ六時間にはなる。 狼達は一度成功したので、こうしておかないと、きっとまた群れを襲うのだ。 図に乗った彼らには勢いがあるので、恐ろしい。 放っておけば被害は倍増することだろう。 狼追いは、危険だ。チノは、それを十分分かっていた。 狼追いをするつもりが逆に狼に襲われて死んでしまった青年のことを、チノは知っていた。 実際に、見た。人海戦術を取られたのだろう、無数の噛み痕があった。 服にだ。死体は見なかった。見る事が出来なかった。 ただ、血の海は目にする事が出来てしまったので、余計怖くなった。 狼追いは、下手をすると、恐ろしい。 匈奴にはそれは昔からある戒めの感情だろう。 そうに違いない。違いないが、羊は守らなければいけない。 だから上手く狼を狩ることが出来るようになる。 そういうものだと、チノは考えている。 夕方まで眠って、それからゲルを出ることになった。 その時刻までも、それからも、群れを守るのは父だ。 チノが見つけるよりも先にその目を盗んで、 狼達はまた、羊を襲いに来るかも知れないからだ。 幕舎に残っている母は、肖像画である。 チノの母は、彼が十歳の頃に、死んでしまった。 やはりこれも狼追いが要因で、そのとき父は病気だった。 そして彼は、正に目の前で、自分の妻の喉笛が食い千切られるのを見た。 意識を取り戻したときには、他所の家族のゲルに横たわっていた。チノも、そこにいた。 普段少しもそんな素振りを見せないが、父はそのときのことを一生悔やんでいるという。 それに、一頭の白い馬も死んだ。彼女の愛馬だった。 彼女は、チノの愛馬の、母馬だった。 大地が地平線から真っ赤になる。 出発の刻だ。 日時計も朝より大分傾いた。そのときより先んじて身を起こしたチノは、 愛馬である青色がかった毛並みをした白馬と食事をした。 白馬がゲルの近くの新芽を羊と一緒に食べている横で、 チノは父親と一緒に羊のうちの一匹を殺して焼いた肉で精をつけた。 同時に、前々から教え込まれてきた狼追いの仕方の復習をした。 火を使う。奴等の気を呑む。弓で追い、剣で払う。それだけだ。 必要とあらば、狼達の群れを統べている狼を見極め、 痛めつけるか、殺すかする。望ましいのは後者だ。それだけ、だ。 だが、後者になることはあまりない。追い払うだけで終わる。 深入りして死んだのが、いつかの青年だった。 チノは自分がどうするか、どうなるか、分からなかった。 老羊ナイと、五、六年前に殺された母のことを考えると、 どこか心の奥底のような場所から、ふつふつと怒りが沸きあがってくるのが分かる。 が、自分が狼達をどうしてしまおうかと考えているのかは分からなくて、落ち着かない。 なんだか妙で、妙に、心がふわふわと、浮き沈みを繰り返している。 その内怒りの感情もその溝に落ち込んで、何かと混ざり合って、分からなくなる。 また、思い返す。怒りが現れ、膨れ、溢れ、 そしてまた何かと混ざり、見えなくなる。繰り返しだ。 怒っていたのかさえ分からなくなってくるのだ。 本当に、妙だった。彼にとってこの状況は、空前絶後のものだった。 普段こんな思いを抱くことはなくて、それこそ、風を凪がれた森の湖の、湖面のようだった。 チノは滅多な事では動じず、笑うが、あまり怒らない。 怒りが沸いてくると言ったが、彼自身にはそれが怒りであるかどうかも判別出来なかった。 こんなに分からない事ばかりなのも、珍しいことだ。 帰 次 |
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