雨の音。


風の音。


もうそれさえも、聞こえない。


あなたの音しか、聞こえない。


今はただそれだけしか、聞こえない。









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風鳴り




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ぱしゃ、ぴしゃ、ぱしゃ。

(雨って、嫌いだわ。出かけるのが億劫になるし)

冬。年の終わりが近い。
長江より南の地とはいえ、この季節は、少々肌寒い。
その江南、呉の主・孫権の広大な自邸は目前である。
傘の代わりに麻布をはためかせて、孫権の妹・孫尚香は、走っていた。

昨晩からやけに空気が重い、と思っていたら、
翌日の朝になってから雨が降り出したのだ。
それも酷い豪雨だ。風も伴っている。僅かなりとも濡れることは、免れない。
雪だったならば、それはとても珍しいものだから、
気が滅入りも億劫にもならなかっただろうが。

しかし、そんな中で突っ立っている人間を、彼女は見つけた。
あんなに大きな体躯をした人間を、彼女は他に知らない。
知っているとすればそれは、記憶の彼方の父であり、または兄の小覇王の姿である。

「周泰!…どうしたの、そんなにびしょ濡れになって」

ぱしゃん。
靴が一際高く水音を慣らし、泡沫を散らせた。
彼女の足下も既に水浸しになっているので、
それによって濡れることに気を留めることはなかった。

周泰―――呉侯孫権の一番の護衛役である彼は、その妹姫の声に振り向きはしたが、
そこから動こうとはしなかった。
漆黒の鎧も兜も装飾である真紅の羽根飾りも、濡れそぼっている。
何を言おうともしない。口を開こうとすら、していないように見える。
尚香はそれに苛立って、

「とにかく、中に入りましょう。いくら周泰だって、風邪をひくわ」

突っ立ったままの周泰の手を引っ張って歩き出し、すぐ走り出し、
自分の家でもある兄の館に向かった。


邸園の主である次兄はこの雨の中登城しているのか、
はたまた人目を忍んで城下へ出ているのか、いなかった。
しかし彼がここに来ているということは、そのどちらでもなかったのだろうか、
と孫尚香は考え、それから、思いの外濡れそぼった自分と相手との姿に溜め息を吐いた。

「待ってて、今着替えを持って来させるから」

「…いえ。俺は…」

周泰はとんでもない、と断ろうとしたが、彼女はその寡黙な男の
口の端から零れるような訴えなどは意に介さず、
同じように水浸しになった麻布を折り畳むと、廊下の先へと走って行った。
やり場のなくなった彼の手はそのままゆっくり下げられ、と腰の辺りに落ち着いた。

そのままそこで佇んでいると、軽い足音が帰って来た。
そちらに振り向くと同時に、ぼす、と顔面目掛けて、何かを投げてよこされた。
両手で受け止めるとそれらは白んだ服と、少し厚手の羽織と、褐色に染められた布だった。

「身体はこれで拭いて。そっちの白いのは着替え。
 …ずう・・っと前に兄様と一緒に帰ってきたときに、あなたが置いていった分だから」

彼女の言う通りずっと以前、自分は呉侯に新しい鎧を宛がわれ、
それを受け取るために直接この館に来たことがあった―――と、周泰は思い出した。
中に着ていた服まで新しいものを贈られ、そのまま、
孫権の館の比較的近めに作られた自分の屋敷に帰ったのだった。
それを思い出すと、何故この服が洗濯されて、そのままにされていたのかが気になった。
自分でも忘れていたほどであるから、捨てられていてもおかしくはないのだ。

ありがとうございます、と低く小さく礼を言う。
すると、濡れたままの鎧をこつん、と小突かれた。

「気にしないで。…でも、声はもう少しおっきくしてね?」

私、人の話をよく聞かない節があるから。
そう付け加えて、尚香は小さく笑った。
周泰もその柔らかい雰囲気につられたように、口の端を緩めた。


別室で着替えを終えた周泰は侍女に案内をされて、庭園の前までやって来た。
等間隔毎に立った太い石柱で支えられた石屋根の下には、
同じように着替え終わった孫尚香がおり、周泰を待っていた。
人より寒さに強いのだろうか。
先程と同じように動きやすく、身軽な恰好をしている。
違う所といえば、胸元の花の花弁の色が変わったことだとか、
それくらいの微々たるもので、よくよく見なければ気付かないだろう、細かい点ばかりだ。

しかし、何故か、この女性の容姿はいつも周泰の目に焼きつくのである。
彼は無頓着というわけでもないがあまりに女人に興味を抱かない。
それにしてはとても珍しいことだが、彼もつい最近までそのことに気が付かなかった。

孫尚香の透き通った翠の玉石が嵌め込まれた耳飾が揺れた。
音といえば雨と風の音としかしていないはずなのだが、
しゃらん、と細い金属で作られた楽器が奏でられた音が聞こえたように思えた。

「兜を被っていない周泰は、久し振りに見るわね」

簡単に束ねられた黒髪が背に垂らし、
また、簡単な白めの服と少しの厚着に身を包んだ周泰は、
その屈強な体躯と、幾らか整ったその顔と、肌に刻まれた無数の傷とを除けば、
普通の市井の男として見られても不思議がなかった。

翠の、玉石。黄金で出来ているのであろうその装飾品を
孫尚香が身に付けている姿を、彼はその日、初めて見た。
それまでの彼女は耳飾をしていることが一度も無かった。
その後ろで、ぼやけ気味の庭の石や石床や土、木、草に、雨がざあざあと降り注ぐ。

「戦も軍議も無いときでも、そんな恰好してるんだから…」

まだ少しばかり濡れた髪と肌とが揺れる。
くすくすと少し幼さの残る笑みによって緩んだ孫尚香の瞳を、
周泰は自分の切れ長の瞳で、真っ直ぐに見詰めた。
そして彼女の新たな徒名を、発音する。

「孫…夫人」

「…なあに、周泰?」

一瞬きの間だけだったが、彼女の深い色をした眼が肌や髪とは
異質に揺らいだのを、彼は、見逃さなかった。
見逃す事が出来なかった。
口をついて出るのはそれが心の琴線に引っ掛かってしまったが故にである。


孫夫人。
彼女は齢十七歳にして、結婚の相手を決められた。
それくらいでの結婚だというだけならばおかしくはないが、
その相手というのが、三十を越える中年、初老の男なのだ。

相手。
それ即ち、益州は蜀の山岳地帯を手に入れた男、劉備玄徳。劉皇淑。劉益州―――
漢室復興の大義を掲げて乱世を龍の如く駆け抜けてきた、大徳の男である。
傍らには軍神。若しくは燕人。それに驚くべき肝胆を持つ竜。
そして臥龍天昇、蛟龍智謀の諸葛亮公明。
その人徳に因り彼は様々の大才人をその膝元に引き寄せた。

彼らは甘露寺で、華燭の典を執り行った。
今や孫尚香は国人・外人誰もが認める、蜀の劉玄徳の正妻であった。


「…東府の園に、お戻り下さい。」

周泰が言った。
東府の園とは周瑜が孫権に献じた策を採用したもので、
玄徳を贅沢漬けにして堕落させてしまおうとするための、いわば一大楽園であった。
楼宮は絢爛華麗、庭池には宴の遊廓船が浮かべられ、
庭土に植えられた木々は四季折々に色々な花や実を携える。

莚を織って売って暮らしていた玄徳にはそれは夢幻の、
桃源郷とも違わぬような世界であっただろう。
昨今の劉夫妻はそこで生活し、寝食を共にしていた。
ところが、夫人・孫尚香は此処、孫権の自邸にいるのだ。

周泰は彼女の腹違いの兄を捜していたのではなく、
多分孫権の命によって、彼女自身を捜していたのだった。
それで彼女が寄り付きそうな場所のうち最も確率が高いと思われる
孫家の屋敷に出向いたのだ。

「そうね。私の、夫が、心配しているでしょうから。」

抑揚の無い、落ち着いたというより落ち込んだ声で、尚香は答えた。
暫し俯いていたのだが、上げた顔には笑顔が張り付いていた。

―――眉根が微かに寄せられた、歯を見せない、泣きそうな笑顔。

胸が、締め付けられる。
周泰はその感覚を確かに感知した。
音といえば雨と風の音としかしていないはずなのだが、
ぎゅう、と細く硬い針金と重い鎖とで出来た拘束具が腹か胸かどちらかの
底の方で作用し、また、そこが締め付けられるような思いが抱かれた。

抱いてはいけない想いと気付いたのは、ついぞ最近のことだ。
抱えていては後の害としか成り得ないだろうその感情なのだが、
彼にはそれを打ち消してしまうことが、中々出来なかった。

「周泰」

気付くと、周泰の太い腕は、いつの間にか尚香の細身を捉えていた。
武術を嗜み、武芸を好む。弓腰姫などとまで徒名されている。
並大抵の男では、いや、並大抵の男でなくとも、
彼女の武闘術にはなかなかかなわない。
今まで彼女が幾人もの男達を叩き伏せてきた所を、周泰は実際に見てきた。

しかし、細身で、柔らかで、手弱たおやかで、女である。
そう思ってきたそれを今更に実感しながら、
周泰は自分自身の行動に驚いていた。

抱いてはいけない想いとは分かっていて、
曝け出してはいけない想いとも分かっていて、尚しかし、
彼は自分の両腕の中に収まった少女を手放してしまう気になれなかった。
その逆に、駄目だとか、そんな風に思えば思う程に、留め置くための力は強まる。
尚香はこの痛みに僅かに眉を潜めた。

「…周、泰」

「幼平と」

それ所か、咎めるような痛みすら孕んだ声すらも、意に介することが出来ぬまま。

「…以前のように、お呼び下さい…孫尚香様」

先程彼の胸を締め付けていた音は、彼が彼女を抱き締める音に変換された。
いや、それらは並立していた。
周泰が孫尚香を強くその腕に抱けば抱くほどに、
彼の心身の底の痛みは増し、楔は強く肉にり込んできた。

ずう・・っと以前までは孫尚香も孫仲謀と同じように、
周幼平のことを、幼平、と字で呼んでいたのである。

尚香は、答えることも、応えることも出来ぬまま。

「冷たいわね…周泰」

彼の厚い胸板に、頬を寄せた。
布越しにだが、雨や風とは違う音が幽かな温かな温度と律動とを以って、彼女の耳朶を打った。
風雨は更に激しくなり、彼らの足下まで、雫が飛んできている。

「…冷たいです」

小さな周泰の声も、か細い孫尚香の声も、雨と風は飲み込んでしまった。
しかし互いにだけは聞こえていた。
お互いの肌を冷たいと言いながら、彼らはこの上ないほどの温かさを感じている。
お互いの温かさを感じながら、彼らは彼らの内の熱さに身を焦がれている。

(……抑えが、効かぬ)

今このときだけは、この衝動を封ずることは不可能だろう。
周泰はそれを知ると、そっと、その、濡れた頬に手を伸ばした。
拒否は無かった。
指先が触れただけでその温度差に血が遡り、
その熱さは尚香の心身に、じわりと伝わっていった。

辺りの騒々しい水音や風の鳴る音と裏腹に、
彼らの間の時間は、緩やかに、深々と過ぎて去っていく。

孫尚香は―――孫夫人は―――周泰を、見上げた。
そして、その名を紡ぐ。


「幼、平…」


周泰曰く、余りに烏滸がましすぎる、想い。
その想いが想いの丈の頂に達した。
抑えは、やはり効かない。絶対的に不可能であった。
柔らかな瑞々しい唇を掠めた荒れた唇はすぐには離れていかず、
食むことこそしないが、その一点のみの繋がりに、猛る感情を寄せ合わせ続けた。

拒否は、無い。
それどころか、手弱女の細くしなやかな手は、益荒男の武骨で頑なな手を取り、
柔らかに、そして強く握り締めた。

相手の胸打つ鼓動以外は、相手の息遣い以外は、
何一つ聞こえなくなった。
ごうごうという風鳴りすらも、ざあざあという雨降りの音すらも、
鼓動と目の裏の黒と白とに吸い込まれてしまった。

辺りの騒々しい水音や風の鳴る音と裏腹に、
彼らの間の時間は、緩やかに、深々と過ぎて去っていった。
長く、短い時間は、過ぎ去っていった。





長江のせせらぎ。
読んで字の通り、それは、せせら笑いなのだろうか。
遠ざかる船を眺めながら、彼はそんなことを考えていた。

「幼平、何をぼうっと突っ立っているんだ!
 玄徳が、弓腰姫様が、行ってしまうぞ!」

蒋欽が岸辺で、そう叫んできた。
彼は、周泰が抱き込み隠してきた想いを、おぼろげながら気付いていた。
周泰が呉侯を護る傍ら、主よりも強く他の人間を見詰めている所を見たからであった。
その眼差しの強さから、どれほどの想いかも、
どれほど永きに渡るものであるかも、知っていた。

長江の流れの上流へと遠ざかっていくその船には諸葛公明が、趙子竜が、
劉玄徳が―――そして、孫尚香が乗船していた。

「幼平…周幼平!お前は、それでいいって言うのか!?」

また、蒋欽が、叫んでいる。

周泰は答えなかった。
親友にも答えなかったが、心の中で同じように『これでいいのか』と問う自分にも
彼は答えてやることが出来なかった。

冬の冷たい空気。乾いた空気。澄み切った、空気。
弓腰姫と劉益州とが乗った船が遠ざかっていく様子は、よく見える。
将兵達の声や軍靴の轟きの中ですら、川がせせら笑う音が、よく伝わってきた。




(…尚香様)




川の音。
風の音。
今はただそれだけしか、聞こえない。
あなたの音は、聞こえない。




(どうか)




もう憎しみすら、溢れない。

幽かに在り得た憎悪は鳴り響く風に化し、
葬られてしまったかのように、なりを潜めてしまった。




(どうか、健やかで…)




ひゅうん、と風が甲高く、泣いた。















--- おわり ---



















--- あとがき ---

台風がやってきた!
というわけで『来た』ので半日で書き上げました。今午前二時です。早く寝ろよ馬鹿>俺
俺にしては抱き合ったり接吻したりと頑張ってます。…頑張ってるんですこれでも。
思えば雑記(自宅絵板)から発生した変態周泰×孫尚香(周尚/泰尚?)を
好きになってしまい、友人との絵茶によって更に嵌まり込んでしまったカップリングです。

…劉尚大好きですよ、自分?

しかしまた世間の波に激しく逆らったカップリングですね。珍しく悲恋だったりもしますし。
国家の大事とあらば私情は挟むべからず。そんなの悲しいよ徐晃さん(何)
なにやらよく分からない題名に中身でしたが、
読んで下さった方、ありがとうございました。お疲れ様です。


…というか随分と大人しい孫尚香だなあ…(悩)


04.06.22.












蒙尚も好きだなんて言えません



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