呂蒙は衰弱していた。
蜀の軍神・関羽を打ち破り凱旋した彼は呉主孫権の二夜に渡る宴に参じ、
二夜目の終盤、孫権と彼の妻の呂秋との前で吐血した。
衰弱が始まったのはそれからだ。
目にも見よ音にも聞けよと言わんが如く、容態は目まぐるしくも目に見えて悪化していく。

出仕はしていたが、取り止めるようになった。止められたのだ。
呂秋が何度休めと言っても彼は意地を張ったように公務を休もうとはしなかった。
命に関わることとしか思えない。だが呂蒙は平気だという。血は、あれ以来吐いていなかった。
宴から一週間もしない内に、彼は竹簡の端に血の泡を、湯に薄い赤膜を張らせた。

それで漸く孫権が、自宅謹慎の命令を出した。
今の呂蒙はそうでもしないと止まりそうになかった。

努力によって知恵と理性、落ち着きを得たはずの彼が、
聞き分け無く、自分の身体に鞭打つように内政・外政、外征に頭と体を巡らすことをやめようとしない。
孫権にも孫仁にも、張昭にも、張紘にも、それはひどく反普遍的であり、考えられないことだった。
宴以来、呂蒙は普段と変わらないようでありながら、ひどく殺気立っていた。
相手が誰であろうとそれは関係が無かったが、呂蒙だからこそ抑止が出来た。





「子明」

薬湯が注がれた杯を、呂秋が持ってきた。
使用人達は『もしも流行り病だったらどうする』ということで、家から遠ざけた。
彼も彼女もここ数日、人間との接触は一つも取っていない。
呂蒙の世話は、全て呂秋がしている。

立って、歩くことは出来る。
持久力が下がっているが、走ることも出来る。
ただ跳躍や湯浴みの際の全身浴はよくない。
左心―――心の臓への負担が大きい。

天井を向いて静かに寝ているかと思えば、
呂蒙は寝床に何か竹簡を持ち込んでいた。
半身を起こし、以前より力の失われて見える垂れ気味な目でそれを読んでいる。
覗き込む。左伝だった。正式には、春秋左氏伝。春秋三伝の一つだ。
孔子の著した儒学の経本であり、春秋の解約書だ。
呂蒙自身が討った関羽もこれを読んでいたということを、どこかで聞いたことがある。

「おっ」

「返事くらい、したら?」

言いながら、その古びた竹製の書物を無理矢理に取り上げる。
熱中のあまり妻が部屋に戻ってきたことにも気付かなかったのか、
呂蒙は驚いた顔をしている。頬の肉が削げている。
代わりに押し付けられた薬湯入りの杯を、慌てて受け取った。

「ここ数日、俺は寝たきりなのだ。調練もしていない」

「ちゃんと、目を瞑って眠って頂戴。
 それと、そんなに暇なら違うものを読んで。せめて、内政に関わったものを」

「左氏伝も十分関わっている」

「だめよ。戦のことは、頭に入れちゃだめ」

苦笑混じりに左伝の返却を求められる。
返す気は無いのだろう、夫の願いは聞き入れず、
竹簡を手早くまとめると懐にしまい込んだ。
寝床の傍に、いつの間に持ってきたのか、春秋の山。
目敏く見つければ、全て呂蒙の手の届かない場所へとてきぱきと運んでいく。
妻の小さいようで大いなる暴挙に、眉が寄った。

左伝を胸元に突っ込んだまま近付いてくる。
見計らって、引き寄せた。病を身に窶そうと、武将だ。一般以上の力強さは失われない。
そのまま掴んだ腕を強引に引き、布団に引っ張り込む。
無理矢理布団の中に入れられたので、暴れる。
暫く抱き締めてやると静かになる。溜息が聞こえた。

「…本気で、心配してるのに」

「分かってる」

腕の中で大人しくなった妻。不満げに眉を寄せている。
その眉間に口付けを落としてやると、見上げてくる。
元々二人用なのか、大きめの寝床の中、向かい合った。
自分と同じ、焦げ茶色の瞳。哀しみの色が混ざり込んでいた。
真っ直ぐに見詰め合うと、お互いに蕩け合うような感覚に襲われる。
ひょっとすると、自分も、そんな目をしているのだろうか。

「分かってる」

瞑目して、繰り返す。
呂蒙が、目の前の胸元から左伝を抜き取る。
それから呂秋の着衣の隙間に手を差し入れると、
なだらかで柔らかな丘陵にそっと触れた。
また呂秋の眉が寄って、抵抗を試みる。然るべきことに無駄である。
その小柄な身体は段々と露にされながら、隠れるように布団の中にもぐりこんでいった。




まどろみから覚める。辺りは少々暗い。
橙の光が窓から差し込んでいる。どうやら現在の時間帯は夕方のようだった。
隣には、妻・呂秋が横たえている。紅潮した頬は未だ元に戻ろうとしていない。
眠っているのだろうが、その息はどこか荒い。

蕩け気味の思考で思い起こせば、建業に立ち戻ってから、これで実に四度目の交わりとなる。
交わりの最中にも、血を吐くことはある。
だが呂蒙はやめようとしない。身の内に飼う獣が目覚めたかのように求め続けるのだ。

抱き合う。愛し合う。というよりは。
媾う。
その表現の方が正しかった。

口の端に付着した赤色の血液。
乾いたそれを更に拭おうと、拳の甲を擦りつける。
今度は煤けた赤色が手に付いた。


更に思い出す。思い出させられる。
その色とは随分と馴染み深い仲になったものだと思っていたが、
自分のそれとは、そうでもないらしい。厭いの念は尽きない。

斜め方向へ真っ二つになった男の身体。
腰から上は無い。断面があるだけだ。
地面を見下ろせば、怒りに満ちた顔。首。


「呂蒙」


低い呼び声。秋の寝言ではない。居たはずの寝室は、寝室ではなくなっている。
何も無い暗闇だ。光もまた、無い。
だが奇妙なことに自分の姿はその暗闇の中にはっきりと浮き出ている。
誰が呼んでいるのか。若い頃殺してしまった、あの男か。


呂蒙は辺りを見回した。
すると首に激痛が走る。思わず、膝を突いた。
掌が、見えない地面を掴む。そこにはやはり、何も無い。
しかし自分は立っていた。今は、激痛に蹲っている。


「呂蒙」


自分と同じくらいの背丈をした影と、
それよりも一回りも二回りも高く大きな背の影が、目の前に現れた。
一切の光が差し込まぬ暗闇の中であるにも関わらず、
それらの輪郭が見え、それらが影であると分かった。全くもって奇妙な場所だ。


影達が発しているのだろう声は、二つ。いや、一つなのか。
呂蒙には判断する事が出来なかった。
声は徐々に間隔を狭め、重なり、混ざり合う。
くぐもった声と威圧感を感じさせる低い声とが溶け込み合い、一つになる。


影が消えた。影も、一つになったのだ。
誰なのか。視覚的には曖昧だが、今でははっきりと分かった。
それは関羽であり、若い頃に殺したあの男であり、自分だった。
二つの影が一つになった様子を目の当たりにしたとき、
呂蒙の脳は何故かその影がそうであると瞬時に理解した。
それなのに、彼は影に聞いた。


「お前は、誰だ」


この場所では、この場所だけではなく、自分までもが奇妙だった。
呂蒙は咄嗟に自分の口元を抑えた。
自分の声ではない。自分の意志で発した声なのだが、違う。
重なり合い、溶け合い、混ざり合い、一つになった声。
一瞬うろたえた後、半開きになっていた彼の上唇と下唇とは勝手に離れ、
舌と頬、顎の筋肉は、これもまた自分のものではないかのように動き出した。


“我は汝であり、貴様は俺だ”


影がそう答えた。
影かと思ったものは実は自分で、それでは影はと面を上げてみると、
そこには何者も居らず、何物も在らなかった。
呂蒙は自分の手を見た。腕と首とを動かしたつもりだったのだが、そこには何も無かった。
とうとう自分も影となった。一つになったのだ。


自分も他人も無い。生物も無生物も無い。
人も犬も無く、牛も虫も無く、魚も鳥も、影も光も、天も地も、何も無い。
それはそれである。これはこれである。
そうやって各々を区別するためにある形というものが、
この不思議な固形物の中では在り得なかった。


途方も無い広さで漂う宇宙には、不定形の魂達が凝り固まり、繋がり合っている。



(ああ、死ぬとは、こういうことか。)



一つ暗闇の中で立ち尽くし、浮かび上がっていた影も、
今まさにそうなろうとしていた。
自分も他人も無くなる。生物も無生物も、無くなる。
呂蒙という人間の中に存在していた自我の最後の一切れが、
朦朧としながら、曖昧なものになっていきながら、ただ漠然とそう感じた。






次の一瞬にはもう、影も暗闇も無かった。




















--- おわり ---














 




--- あとがき ---

(影)うばっちゃったv

すいません冗談です。
呉下の阿蒙こと呂子明さんは、二百十九年頃四十二歳にて逝去なさいました。
こちらのお話では
「碧眼の小児、紫髯の鼠輩、我は関羽なり」
などとは言いませんでしたが…。

ここまでお読み下さった方、どうもありがとうございました。
そして、お疲れ様です。…支離滅裂でしたよね!(爽快な笑顔)

05.04.19.





わけわからんうちにぽっくりと傍らで逝かせたかった。



















互いに着ていたのは、偶然にも、白い服だった。

目覚めたとき、彼女の愛する夫は死んでいた。

病気であるにも関わらず、苦しまずに逝ったのは何故だろうか。

軍医は気にしたが、呂秋はただ、呂蒙が安らかに、

しかも自分の側にいるときに逝ってくれたのだから、それでいいとしか感じなかった。



それ以外に感じたことといえば、

呂子明の死後 一年か二年ほどの頃に、

孫権や孫仁の制止も耳に入れずに長江に身を投げるほどに深い喪失感と、

冬の風鳴りのようにか細い音しか出せない悲しみくらいのものだった。





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