三十六の孫権は既に先走って酒を飲んだらしく、
屈託ないような、底が見えないような笑顔を浮かべて、
彼にしきりに杯を薦めた。
そうした手口で一杯、二杯、三杯と酒を飲まされていくと、
早くも身体中に酔いが回るのが分かった。
予想以上に、また、知らぬ間に、身体は疲労していたようだ。

「今日の子明となら、飲み比べても楽に勝てそう」

その様子を見て取ったのだろう呂秋は、煮て味付けた魚を
一口ほおばりながら、笑って言った。
異例の召喚を受けておきながら口の中に物を入れたまま喋る幼稚さが
相変わらずだったので厳しく注意したいところだったが、呉侯の手前、そうもいかなかった。

「まだそう簡単には負けん」

「今 此処で、飲み比べる?」

「宮中の宴なのだぞ。幾多の名のある将軍や文人、
 あまつさえ呉侯をも目の前にして、よくそんなことが言えるな」

「なんだ。呂将軍家では、酒の飲み比べが恒例行事なのか?」

会話を聞きつけて、妹・孫仁と話していたはずの孫権がまた
視線をぐるりとこちらに向けて、ずい、と聞いてきた。
(恐れ多いことに、呂夫婦はなんと孫権・孫仁と共に上座に座っている。)
呂蒙の脇から、どちらかというと、呂秋の方を見ている。

「…毎日というわけではございませんが。
 愚妻は普通の女に比べ、酒豪のようなのです」

恒例といえば恒例だと思ったので、呂蒙は二、三度深く頷いて答えた。
愚妻と言った辺りに秋が面白半分にこちらを睨めつけているのを耳の裏の辺りに感じた。
それに先んじて手や足が出ないということは、一応は、弁えているのだろうか。

「そうか」

孫権は目を細めて聞きながら、女官にもう一杯、
果物の汁を染み込ませた酒を、なみなみと注がせた。
薄らと赤味を帯びた半ば透明の液体の鮮やかな色にも目を惹かれたが、
呂蒙はそれより、一介の女官の着衣があまりに煌びやかなことに目を見張った。
しかし冬着にしては薄手で、身体の柔らかな線がよく見え、魅惑的であった。
先程よりももっとひどい視線が呂蒙の後頭部を刺した。

そう“お盛ん”なつもりはない。
だが、疲れきっているはずの彼の身体は異様に女を抱くことを求めた。
殺伐とした日常と安穏とした日常との境界線に
はっきりとした区切りをつけたがっているのかもしれない。

無論、誰彼構わずということはないが、目の前の魅力に溢れる女体には、
どうしても目を奪われた。
呂秋は呂蒙より、孫権より、その女官よりも幾分も小柄で、痩身で、豊かな丸みに欠けた。
成人し子を産んでからはいくらかましになったと呂蒙は思うが、
それでも、他の夫人がたなどと比べ、見劣りした。

飛んできた拳を、彼は避けられなかった。
その間抜けた様を見て、孫権や孫仁、武官に限らず、文官や女官達は多いに笑った。

引っくり返った杯の中身を顔面にぶちまけられて
咳き込む呂蒙を見ながら破顔し、孫権は、

「それも、恒例なのだろうか、子明。」

「…割と、そうかも知れませぬ」

また更に、大きく笑った。
呂秋はふてくされてしまったままだった。




「子明、少し痩せたね」

帰り道、秋がそんな事を言った。

妻の肩を借りて漸く歩いていた呂蒙にも、それはおぼろげにだが、聞こえていた。
そして、そうだろうな、と納得もしたが、

「お前よりは肥えているだろう」

と、酔いからか、茶化すようにして答えた。
確かに武将たる者、
よく食べ、よく鍛えねばならないのだから、痩せ細っているわけがない。

赤ら顔の亭主がそのままむにゃむにゃと何か言いながら
寝入ってしまったのを見て、呂蒙は苦笑する。

「ほら、起きて」

館までは、まだ距離がある。
疲れ果てた呂蒙に、秋は何度も声をかけて起こしてやらねばならなかった。

「もうちょっとだから…」




昨日もしこたま飲まされた と思ったのだが、呉侯は今日も宴を張るのだという。
山越賊など、江南のあちらこちらの異民族の討伐や宣撫にあたっていた武将達も、
呂将軍の関羽討伐と荊州奪還の祝いを是が非でもしたいらしい。
孫権は、仕事を終えた直後の呂蒙には申し訳ないなと思いながらも、彼らの要望を呑んだ。
彼もまた、祝い足りなかったのだ。

招待を受けた呂蒙は、穏やかに、苦笑いをした。

(…真にありがたいことではあるが)

今夜も細君を連れて来て欲しい、とも言われた。
それはほぼ命令だとして受け取ってもいい。
秋の自由奔放な気性を、孫権は気に入ってしまったのだろうか。
幸い夫婦共に二日酔いはしなかった。

(流石に今夜もあいつを連れて行くのは、憚られる)

しかし呂蒙は妻を連れて行きたくないようで、
昼間まで眠っていた秋がやっと起きてきても、
(呂蒙が建業にいるときは一緒に早起きをしていたが、
 いなくなってから、徐々に生活の規則正しさは再び失われていったらしい)
なかなか宴のことを教えることが出来なかった。

風邪をひいただの、二日酔いをしただのと言って、誤魔化そうと考えを決め。
夕暮れどき、彼はこっそりと自邸を抜け出した。
そしてそのまま、城中の、宴の間に通されたのだが、

「遅かったね、子明」

…そこには既に、笑顔の秋が待っていた。
帯の緩め方を見ると、今晩も、飽きる程飲むつもりのようだ。
呂蒙は諦めたように肩を落とした。




日が沈みきって暫くする頃まで宴会は宮中で行われたが、
途中から船室での宴へ移行した。張昭に安全性についてを計ったが、

「関羽、つまり蜀から荊州領の所有権が、一応は我らに移った。
 これは大変大きな動きじゃ。
 敵方の間者達は未だ、下手に動く由が無いことであろう」

というわけで、特に問題はないらしい。
あるとすれば主公の過飲くらいだと、冗談まで言ってのけた。

彼にも荊州奪還については仕事こそまた山積みになるが、非常に喜ばしいことなのだ。




宴も中盤から終盤へ差し掛かる折り、
上座から離れていた呂蒙は孫権に呼ばわれた。

(…呉侯の癖が、始まったか)

彼はそう直感した。疑問でも危惧でもない。
嬉しそうな孫権の顔を見ればそれは一目瞭然、決定打だ。

孫権は酒を飲むと、特にこういった祝勝などの宴の中でだと、
人を誉めちぎる『誉め上戸』になるのである。
被害に遭った武官や文官の数はおよそ三十には及ぶ。
代表として挙げられるのは、やはり上半身を真っ裸にされてまで
戦士の勲章である傷を見せびらかされ、その上で誉めちぎられた、周幼平だろうか。

普段から放逸な君主ではあるが、言葉の限りを尽くす様に萎縮しない人間は中々いない。
動じず冗談まで言ってのけた人間はと問われれば、
まず魯粛の姿が真っ先に浮かびはするが。

「おお、子明…!お主のような忠烈な志士を膝元に置くことが出来て、
 私は幸せ者だ!」

「よかったなあ、子明!私も幸せ者だ!」

孫権が、呂秋に肩を貸されて、その若い顔の目尻やら口の端やらを
くしゃくしゃにした満面の笑みで、呂蒙を迎えた。
やはり、と彼は思った。しかし自分の妻までがあんな赤ら顔をして、
恐れ多くも呉主の隣で一緒になって軽口を叩いているのは、一体全体、どうしてだろうか。
しかも口調は完全に素の状態そのものだ。

いつの間にかいなくなったと思っていたら、
夫の主と仲良く酒を飲み交わしていたというのか。

呂蒙は恐れ多いと思う反面、それとは別の怒気のようなものが
腹の辺りでちりちりと燻る感覚に気付いた。
しかし彼にはその熱さは、酒によるものだとしか思われなかった。

秋もまた、弾けるような笑顔で夫を迎え、その腕の中に飛び込んだ。
呂蒙は勿論恥じ入ってしまって、それを咎めようとしたが、

「子明はやっぱりすごいんだなあ…呉侯さんが沢山話してくれたぞ、
 城にいるときや、軍議のときや、戦場での子明のこと。凄いんだ、って。」

だとか、

「子明と一緒でよかった」

などと、普段ならば帳の中でしか出さないような眠ってしまいそうな声で、
しかも恍惚として公衆の面前でのたまうので、また恥じ入ってしまって、
それすら出来なかった。

「熱いな、呂蒙」

丹田のことではなく自分達夫婦のことを言っているとはすぐに分かる。
何だか可笑しそうな顔をして、孫権がからかうようにして言ってきた。

「…お恥ずかしい、限りです…」

「いやいや、羨ましいな。果報者だな、子明は」

そういえば、いつもならば彼女は既に寝に入っている頃である。
(早寝遅起き、が彼女の元来の生活である)
筝などが奏でる穏やかな旋律もその安眠を助けているようで、
秋は今にも眠ってしまいそうな程、瞳をとろんとさせている。
呂蒙は、孫権に見えないように秋をはたいて起こした。

「果報者との仰せですが、侯にも素晴らしい妻妾様方がおられるではありませんか」

「確かに私の妻達は美しいし、私を支えてくれている素晴らしい女性ばかりだ。
 しかしその娘は彼女等とはまた大分違った美しさを持っているぞ、子明」


娘、との、呼ばわり。

呂蒙はその言葉を耳にしたときから何故か、腹の底の熱気を思い出した。
先程より確実に熱を上げたそれはぐつぐつと煮え滾って、
嵩を増させ、どんどん溢れんばかりになっていく。
丹田から徐々に全身、それから末端へその熱は伝わり、
終いには額から目、首を伝い落ちて、また腹に戻った。
夜の海の底に似たどす黒さだけが増して、
冷えはせず、それ所か熱気はまた上がっていった。

最中、一度だけ、大きく鼓動が鳴り響いた。
孫権にすら聞こえてしまうのではないかというほどの大きな高鳴り。
その胸の跳ね上がりに秋は首を傾げる。
酒気を孕んで増えるのは脈拍数であり、
血流の激しさが増すわけではない。


孫権は、続けて、その娘といると自分が呉の主であることなど
ついぞ忘れてしまいそうになる程楽しい、とまで評した。

また、胸が跳ねた。

秋はまた首を傾げて、呂蒙の胸板に手を添えた。
彼はぐっと息を呑んだ。その顔面は身体の熱さに反して、蒼ざめている。
赤い顔をした孫権は呂蒙の顔より視線を下へと落とすと、
にっこりと、微笑んだ。

腕の中で嬉しそうに、眠そうな瞳で微笑み返す妻の気配を感じたとき、
彼の胸の辺りにまで、熱の塊のようなものがこみ上げてきた。

周りの官の衆達はそれには気付かず、その仲余りに睦まじい呂将軍夫婦と
酔っ払ってしまった君主との三人が上座に立って話しているのを、
面白そうに眺めている。寝転げてしまったのもいる。
宴は終盤にまで来ていた。


花色の宴。

七色の人。

夕日色の妻。


君主の声。

妻の声。

陸遜の声。


聞こえる。

波の音。

剣戟の響き。

星が瞬く音。


死者の呻き声。

刀身が月光に煌く音。

打ち落とされた首。

長髯。


死者の呻き声。

誰の呻き声だ。

俺を呼ぶ声だ。

誰が俺を呼ぶ。

誰が、俺を呼んでいる。


呼び声。

呻き声。

鬨の声。

風の音。

呼び声。

呻き声。

鬨の声。

叫び声。

泣き声。

声。

声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声声






無数に。



















呂蒙の眼前に、赤い、ただただ赤いだけの世界が―――広がった。




















--- つづく ---














  




--- あとがき ---

最後部がくど過ぎると自分で思いました。

一度PC破損により消え失せたこの呂蒙シリーズ続編のtxtファイル。
のろのろのろのろ書き上げ載せてみれば血みどろの蒙ちゃん。
はてさてこの先ちゃんと自分の思い通りに進められるのでしょうかこのお話。
書き手のくせにそういうことに対していつも不安を抱きます。

05.01.08.











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