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――――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――― 確か自分は今、四十歳くらいだったか。 退路を断っていた潘璋が麦城を脱した関羽を斬ったという報告を受けながら、呂蒙は思った。 それで、聞いた。 「関羽は 「…は」 そう返されても無理はないと思い、彼は苦笑した。 伝えに来た武将・是具は、元劉ヨウ配下是儀の息子で、呂蒙より年下であった。 鸚鵡返しに聞き質そうとする是具を制し、再び黙り込む。 黄巾の乱というものがあった。 184年(中平1年)、前々帝である霊帝が崩御するより前のことだ。 その、霊帝―――世人曰く『隷』帝の悪政が原因の民衆蜂起であったが、 そこには信仰という強い繋がりの絆が存在した。 頭領は張角という男で、朝廷の科挙(採用試験)に失敗した男だった。 大賢良師・天公将軍などと名乗り、黄巾の乱のもととなった太平道を起こした教祖だ。 信者である民草やならず者達が頭に巻いた黄色い布は彼がそうしているのを真似たものだった。 太平道の教えは張角や張角の弟や弟子達が人々の病を癒して 広まったものだったが、彼は病没した。 彼の太平要術は、彼には通用しなかったということだ。 もし、通用していたら。乱は史記に『太平革命』などとでも記されただろうか。 彼はときの皇帝か何かになっていたのだろうか。 無駄な考えだった。 張角は病没したのだ。 乱の鎮圧の一翼を担った義勇軍の将――― 彼に荊州を託されていた関羽は、彼より年下のはずだ。 根拠は劉備、関羽、張飛が交わしたという桃園の誓いという義兄弟の盟からだ。 関羽は次兄だ。劉備は、五十八歳。 彼らが志を立てたときの自分はまだ民の中の黄口児に過ぎなかったなと考えた所で、 呂蒙は考えを切った。いや、遮られた。 「どうなされました、呂蒙殿」 小舟を、彼の後輩である陸遜が、迎えに来ていた。 呂蒙の顔は松明の光に照らされて赤かったが、実際には青白かった。 吐き気をもよおしたかのように口を鷲掴んだ様子はいかにも具合が悪そうで、 単なる船酔いだとは思えなかった。 いや、船酔いなどと、陸遜は中々考えつきもしなかった。 南船北馬。彼は根っからの南の呉の、長江の人間だった。 呂蒙は江北である汝南県から渡来してきた男だ。 水音がちゃぷちゃぷと聞こえる。 呂蒙と、比較的小柄な是具だけが乗った小舟はわずかに、緩やかに律動を刻む。 暫く、そうしていた。 呂蒙が、詰めるようにしていた息を大きく吐いた。 呼吸が再開する。 「…何でも、ない」 彼は漸く首を振り、舟を降りた。 逞しい肉体こそしているが、今は商人の服装に身を窶している。 陸遜は、彼を支えるか支えまいかとしながら歩いていた。 舟底に座っていた呂蒙はひどく弱々しく見えたが、 陸に踏み込んだ呂蒙は一歩進む毎に元のように戻っていく。 そこでやっと、もしかすると船酔いだったのではないか、と陸遜は考えついた。 支えるのは、やめた。呂蒙の背はぴんと伸びていた。 呉侯への報告を竹の書簡に記し終えて、寝台に寝転んだ。 ぎしりと鳴ったのは部屋やその周りの方だ。 また、舟の上だった。ただし今度は船だ。 兵や荷を大量に積める楼船で、呂蒙はその中の上等の部屋を宛がわれた。 先刻の船酔いのような症状は出ていない。 顔色もすっかり元に戻っていた。 行灯の小さくも暖かな光が、それを照らす。 関羽の首級を詰めた鉄の箱は、自室に置いた。 後々利用する必要があるかもしれないと考えたためだ。 身近に置いていた方が、考え付くことも多いかもしれない。 興味はあるが、顔は見ていない。 呉侯と共に見ることになるだろうと思った。 (軍神と謳われようだが、結局は、関羽といえど、人間だった。 俺と陸遜の策に敗れたではないか) 塩漬けになった関羽の首は、呻き声一つ上げない。 (そうだ、死ねばみな同じだ) そう、殺せば皆、誰であろうとただの骸になるのだ。 そこで彼は、昔のことを思い出した。 黄巾の乱やその残党による叛乱が鎮圧された後、自分は成長していた。 したが、精神面は、確たる向上をしないまま、乱世に沿い、荒れ荒んでいった。 十五、六で、出世をしようという気はあった。 姉の夫であるケ当が賊を討伐するのについて行ったりもした。 虎のことを例えて母を言い負かしてからは、それを諌められることはなかった。 盗みや女子供への暴行は許せなかったが、自分自身随分乱暴な真似をしていた。 殺伐を好んだ。仲間は作らなかった。 亡くなった前都督・魯粛が言った、『呉下の阿蒙』時代でも、特にひどい頃のことだ。 人一人を殺したことがあった。 あったが、それからは悪さを控えていた、覚えが、ある。 正確には覚えていない。 確実なのは、日々を茫洋として過ごしていたことくらいだ。 あの男のことを思い出した。初めて殺した男のことだ。 義兄であるケ当の手下の男だった。 何故殺すことになったのかは、あまり覚えていない。 それほど些細な理由だったのだろう。 もう、何年、何十年前になるのだろう。 右肩口を斬り付けてきた。 同時に、こちらは、柳葉刀を振り下ろした。 男の身体は、左肩から右の脇腹にかけて、真っ二つになっていた。 一瞬はそうとは分からなかったが、もう数瞬後、男の身体が斜めにずれたのだ。 胴が落ちた。 男だったものは立ち竦んだまま、腰の断面から、だらだらと血を溢れさせていった。 胴にくっついたままの顔は、怒気に満ちたままだった。 だが、死んでいた。 先程まで声を出していた。 だが、死んだ。 もう一つも動かないし、一つも声を上げない。 (…そうだ。) 死ねば皆、同じなのだ。呂蒙の右肩の傷は痕こそ残ったものの、癒えきっている。 生きていれば、骸にはならないで済む。当然のことだった。 考えても、無駄なことだ。 そこには関羽という一将の、一人の男の首があるだけだ。 他の首級と同じだ。特に意味も影響もない。 もう眠ろうと思い、呂蒙は部屋の隅に歩いていくと、 机に近い行灯の小さな火を吹き消した。 穏やかな暖色の光が消え、呂蒙の顔の前に、白い煙がわずかに渦巻いた。 一瞬の内に訪れた闇の中で彼は再び動き出し、 少々気だるげに、寝台へ向かった。 一歩、二歩、踏み出す。 「…!!」 三歩目を踏み出したとき、彼の身体の周りの空気が大きく振動したように、彼は感じた。 一度大きく揺らいだ視界には暗闇と、その真ん中でぼんやりと浮かび上がる寝台の白っぽい色が 見えるだけの筈なのだが、彼の目の前は真っ赤になった。 ぼんやりと浮かび上がる寝台も真っ赤だ。 物と空気との狭間が僅かに暗みがかっていて、やっと形が分かる程度だ。 全て、空気までもを赤で染め上げ、塗り潰したようだ。 また、息が詰まった。 呂蒙は呻き声を上げることも出来ずに、木の床に倒れ込んだ。 呼吸の再生と酸素の供給を求めた。 大気は彼の周りに凝り集まったまま彼を地へ、地の底へと押さえつけ、空気を与えなかった。 悶え、苦しむ。 頭髪と頭と胸とを掻き毟る。 それらもまた、彼の身体の中から酸素を奪う。 見開いていた目を、瞑る。 すると呂蒙は再び、冷たい暗闇に包まれた。呼吸も始まる。 木の床に彼の汗が数滴落ち、染み込んだ。 暫く、一心に、深く吸い吐きを繰り返してから、彼は目をゆっくりと開いた。 視界を覆ったのは、黒っぽい色だ。暗闇だ。 寝台もぼんやりとだが、見えた。 行灯の周りに渦巻いていた煙りは、もう見えない。 (一体、今のは) 彼は荒い呼吸を徐々に収め始め、やおら立ち上がった。 よろよろと、立ち上がった。 目の前にはやはり、暗闇があるだけだ。 邪鬼も百鬼もいない。 考えても分かりそうにないことだ。 自分に医術の心得はない。 寝てしまおう。身体におかしいことがあっても、大抵は寝てしまえば、治るものだ。 これまで実際、そうだった。 呂蒙はそう思い立つと、あっさりと疑問を捨て、速やかに寝台に戻った。 意外にも静臥出来たが、中々寝付けなかった。 竹簡をその日の内に連絡用の快速船に渡すことは、忘れていた。 帰 次 |
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