韓国の有名ファッション雑誌のトップを飾るスーパーモデル、ユン。



つい先日も日本の仕事で秋冬物を中心にし、それを見事にこなした。



自国の伝統文化を重んじ、気は強く、優しい。



そんな完璧なレイディの彼女は、今――…







「…どこ?ココ。」







――…道に迷っていた。









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紅の豚





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日本の道は複雑に入り組んでいて、分かりにくいわ、とは、彼女の意見である。
地図に載っていない道もある、これが道かという所が国道であったりするのだ。
反して、京都や、経済大国アメリカの道は、分かりやすいと言う。
京都もアメリカの都心も、建物や施設は一区画毎に集められている。
所謂『碁盤の目』のような道である。
はっきりした物事が好きな彼女らしいと言えないこともない。
比べてこの東京の道は狭くて、人は多くて、複雑で、
まるで大雨の日に溢れて、零れて、不規則な道を作る、水たまりみたい。
しかし、その東京よりも分かりやすいと言っても、彼女にとっては『少しはマシ』という程度の話。
彼女はその『少しはマシ』な街でも、何度も迷ったことがある。
そう。彼女は、生粋の方向音痴であった。

それが極度な上に日本語も未だ勉強中の身なのだから、ひどいものだ。
右も左も分からないのである。
英語は、ハイスクールのときも成績がよかったし、
世界に出るためにも、と積極的に学んだ。問題はない。
それを上乗せした上での『マシ』なのだ。
京都には外国からの観光客が多かったので、彼らに道を聞いた。
しかし日本人というのは、自分と無関係なことにはなるべく関わろうとしない。
目が覚める程の美人がオロオロしても、見ているだけで終わる。

(それにしたって、此処は人が多すぎるわ!)

ユンは、叫びたかった。
そう、ここは歩行者天国である―――それも、昼間の。
それだから叫ぶわけにはいかなかった。
仕事以外では出しゃばりたくないし、目立ちたくないと考えて。
ただ、実に人の波に流され続けていた。
あっちへ行き、こっちへ行き、あっちへ、こっちへ。
さて、何十分もそんな状態にあった彼女だが、ここで突然の転機が訪れた。

「きゃぁっ!」

ユンは止め処ない人の海にとうとう足がついて行けなくなり、もつれ、転んでしまった。
ヒールが少し高めの靴を履いてきたのも失敗だったと、頭の隅で痛感する。
この、歩行者の戦国のような所で。

しかし彼女がその波に呑まれ、打ちひしがれることはなかった。
ユンの前には、流れに逆らってこちらを向いた、正しく黒い肌の巨漢がいた。
その人物とユンとを避けるために、人の波は二手に分かれ、
そしてまた交わうように、自然に、そのようになっていた。
故意かどうかは別として、礼を言わなければいけないと、ユンは考えた。
落ちそうになった帽子を抑えながら立ち上がる。

「ありがとう。」

相手の男性はかぶりを振ったように見えた。
振ったようにというのは、転んだ表紙に彼女の目にごみが入ってしまったらしく、
薄らとしか、一瞬しか、見ることが出来なかったからだ。

(こういうときは『どういたしまして』じゃなかったかしら?)

しかし、困った。このままではまた転んでしまう、とユンは危惧した。
元来、人がたくさんいる場所は得意ではない彼女だ。
ファンに囲まれるのは別だ。あれは困るだけだが、これは嫌だ!
目をこすると余計に痛くなることがあるので、それも出来ない。
ただ、また正に右も左も分からずにいると、不意に腕を強く掴まれた。
そしてその引力に歩かされる。

(なっ、何!?)

何がなんだか分からないまま、その手に引かれるままに、ユンは歩いた。
少々早歩きに、稀に人にぶつかったのだろう衝撃がったが、
その手のもう片方に助けられて、倒れることはなかった。

(…あれ?)

先程に比べて、なんて爽やかな空気だろうか。
そうか、この人は、自分をあそこから脱け出させてくれたのだ。
先程のことといい、なんていい人なんだろう!
また、お礼を言わなければ。
彼女は0コンマ3秒程度でその考えをはじき出した。
礼儀を馬鹿のように重んじるといわれる日本人より、よほど礼を知っている。

こっちでよかったのか?

英語である。低い声は少々怖く聞こえたが、その発音は極めて端整だ。
ユンにとって彼の言葉は、彼が話した言語は、天の助けとさえ思えるものだった。

(よかった、英語だわ!それなら道だって聞けるじゃない。
なんてついてるのかしら…いいえ、なんていい人なのかしら!)

思った拍子に、ずっと瞑っていた目の中の痛みがなくなった。
自然に目のごみが取れたのだ。
目を合わせて話すのが好きな彼女にとって、また、天の助けである。

ええ!どうもありが…

ユンが礼を尽くし切ることは出来なかった。
何故ならば目を開けて顔を上げた所、丁度目の前にあったものが―――豚の鼻だったからだ。
彼女は驚いて、言葉を止めてしまった。
彼女が連れて来られたのは歩行者天国のすぐ近くの通りだ。
車通りは少なく、人通りも、ほんの少し前にいた場所に比べれば、まばらな方だった。

…どうかしたか?

気分でも悪いのかと言うような口振りで、その、
ピンクの豚鼻にサングラス、オレンジの髪に黒い体の体格のいい男が聞いてきたので、
ユンはハッとした。

いいえ、大丈夫よ。少し目眩がしただけよ。ありがとう。

やっと、目の前にいる人物…彼が、獣人であることを、彼女は理解した。
しかし、大きな体である。ユンとこの獣人とが並ぶと、縦には頭一つ分、
横には二回りも三回りもの違いがあることが分かる。
凸凹コンビとはこのことだろうか。
勿論、縦にも横にも大きいのが獣人の方だ。

…あの

ユンは思い切って、もう一度声を掛けた。
獣人は何をするでも、何処へ行くでもなく、そこで突っ立っていたので、それに応じる。
視線はショッキングピンクのレンズに隠されていて、分からない。

私、ちょっと買い物に来たんだけど…この辺りの道が分からないの。
それで、出来たら、道案内をしてもらいないの。
口頭じゃダメなの、私 道に迷いやすいから。あなたにお礼もしたいし。
…いいかしら?


たどたどしく捲くし立てていった言葉。
それを聞いても、巨体の獣人は黙り込んで、そこで突っ立ったままだ。
ユンは少しおどおどしていたが、しばらくすると、獣人はゆっくりと頷いた。
すると彼女は、喜々としてその腕に抱きつくのだ。
外見に似合わない幼い行動だが、男は驚かなかった。

よかった!私はユン。ユンよ。貴方の名前はなんというの、Hunsam guy?

…FAT BOY。

そう、ファット。それじゃあ、行きましょう!

その行為を日本では『逆ナンパ』というに近しいことを、
英語で話すユンは知る由もなかった。



ユンとファットはそれから幾つかのブティックに立ち寄り、幾らかの服や帽子や靴を買った。
そして今は此処、デパート内部の小奇麗な喫茶店にいる。
冬のビル風が吹く屋外と違い暖房の効いたそこは、とても暖かい。
荷物持ちを買って出たファットが荷物を下ろすのを見てから、
ユンは彼と向かい合った位置の椅子に座った。

重かったでしょ?

彼女からの労わりの言葉を聞いたが、彼はふるふると、ゆっくりと首を振った。
それから自分も彼女と向かい合った椅子に腰を静める。

そう?あなた、力持ちなのね、見かけ通りだわ。

その無口さにもこの数時間の間に大分慣れたので、ユンはクスクスと笑った。
その容姿こそ怖く、強く思えるものだが、
彼の仕草はなんだか子供のもののようで、姿形とはミスマッチ。
面白いというか。何と言えばよいのか。
自分よりも幾らも大きいのに、本当に子供のようで、可愛らしい。
そのギャップがまた、彼女を楽しませる。
柔らかな黄色をした頑なな造花の飾られたその席からは、
各高層ビルの屋上を、そこと同じ視線の高さで見ることができた。
付き添うようにやってきたウエイトレスに、ユンはご飯を食べていなかったから、と
軽めの食事としてホットケーキとホットココアを、ファットは珈琲を頼んだ。
作るのにあまり時間のかかる飲み物でも食べ物でもないので、
注文したものはすぐにテーブルに置かれた。
廊下側に立った硝子の筒に綺麗に丸めて入れられたレシートを、ユンは一瞥する。
お礼に此処に連れてきたから、自分が彼の分まで奢るつもりなのだ。

…苦い。

まだ冷め遣らぬカカオの香り、その源泉に口を少しつけたファットが、
苦虫を噛み潰したような顔をして言う。
それはそうだ。手にしたままのそのカップの中で揺れているのは、ブラック珈琲。
彼が珍しく表に出した表情と、備え付けの砂糖に手を伸ばすのとを見て、ユンはまた笑った。

甘い方が、好き?

辛い方がいい

甘すぎるのも好きじゃない、とファットは付け加えた。
なるほど、甘いもの大好きなんて、そういうタイプには見えない。
対して自分も、甘すぎるものはあまり好きではない。
ファッションモデルとしての嗜みとでもいうのだろうか、
体型を維持するための食生活を送り始めてから、
彼女の味覚はがらりと変わった。味の好みも、考え方も。
それでもまだ嫌いじゃない…、大好きな甘いホットココアからは、わずかに牛乳の香りがした。
少しだけ口をつけると、本当に甘い。けれど嫌悪感は抱かない。
それ以上に、冷えた体に暖かかったせいだろうか。
ホットケーキもテーブルに到着したので、ユンはフォークを手にとった。
目の前ではどばどばと砂糖をいれてしまった珈琲を飲んで、今度は「甘い」と顔をしかめるファット。
くすりと笑って、それからメープルシロップを探して――
フォークと一緒に、小さな木の篭に入っていたのを見つけて――
その封を開けようとした。






「「「ユンさああぁああ〜〜〜んっ!!!」」」






がちゃん。

ホットケーキが乗った広めの皿と、フォークとが克ち合って、音を立てた。
それを聞いて他の席にいる客の何人かがこちらを見遣ったが、すぐに境を入れ直す。
久しく耳にしたその言葉は韓国語。
発信源は硝子の向こう側、そのもっと下の街並み、人の波の中。
ユンは顔面蒼白となった。

…あの子達…まさか…隣の国だからって…でも、海を挟んでるのよ?
なのに…ついてきちゃったって言うの!?


彼女が信じられないというように呟いているその言葉はファットには解せない。
ハングル語だ。咄嗟のことで、英語で話すつもりにはなれなかったらしい。
そして彼女にとって、それほど唐突な、衝撃的な出来事らしい。

ユンは、席を立った。

ごめんなさい、ファット

今度はちゃんと英語だった。
何故謝っているのかが分からなかったのでファットは首を小さく傾げる。
それからユンは、ファットが傍らの椅子に乗せていた荷物・それぞれデザインの違う
紙袋三種を手に引っ掴むと、
その中の一つから、値札の取られた赤いベレー帽を取り出して、
ファットのオレンジの髪の上に乗せた。
誰かや誰かが漫画家や画家を想像するときに、その彼らが被っているベレー帽についている
林檎のへたのように揺れる部分は、ユンが被っているものと同じく、無い。

私…ファッションモデルなの。母国・韓国を拠点にした、ね。
さっきの大きな声は…私のファンの声だった。
中でもあの子達、とても熱狂的なの。とっても嬉しいけど…苦手なのよ。


つまり、彼女は逃げなければならない。ファットは理解し、頷いた。
落ちそうになった帽子を、今度はファットが抑える番だ。
事を急がなければいけないはずの彼女だが、語り調子はゆったりとしていた。
少し悲しげに、別れを惜しむように。

あげるわ、それ。似合ってる。
…可愛いわ。


代金300円に200円、150円をレシートと一緒に硝子の筒の中に入れてやると、ユンは微笑んだ。
可愛いと言われたせいか、それを見たせいか、ファットは彼らしくないことだが、
顔を真赤に火照らせた。ぼわ、と煙や音まで立って見えるくらいに赤く。
赤面した巨漢。また激しいギャップを感じて、ユンは再び、笑ってしまった。



…それじゃあ





バイバイ、またね。





恰好よくて可愛い、豚さん
。」





今度は桃色をしていたファットの鼻までもが、真っ赤になった。
茹でられた蛸のようになってしまったのは、
ユンが彼に、正しくは彼の鼻頭に、軽いフレンチキスをしたからだ。
何を言ったのかは分からなかった。彼女の母国の言葉だった。
ユンは身を逸らすと、硬直してしまっている真っ赤なファットの姿をまた可笑しそうに笑ってから、
紙袋三つを引っ提げて、店を早々に出て行った。
彼女の顔もまた真っ赤だったのは、ぶつかりそうになってしまったウエイトレスと、
新しくやって来た客と、その幼い息子、
サンタの帽子を買ってもらってはしゃいでいる幼い娘だけが知り得た。



さて、取り残されたファットだが、彼女に贈られたベレー帽をやっとのことで手にとって、
それを見つめながら、静かにこう思った。

(またな。)

言葉こそわからなかったものの、頬に宿る過剰な暖かみが、
彼女はそう言ったのだと思わせた。













そしてその彼女、ユンが、
寒空の下 集積回路のような街の中で迫り来るファン達から逃げ惑い、
自分の部屋をとってあるホテルにやっとのことで辿り着いたのは、
大分夜も更けた頃のことだった。













また会いましょう。






また会おう。













二人、赤いベレー帽を目印にして。













●――――――――――――――――――――――――●
あとがき

我らが蜜柑王国が誇る素敵サイトMERRYの管理人、
織田チヨ殿からのリクエストでファッチュンです。
発熱をかぜ薬で抑えつつ書き上げました。
結構時間がかかっていますが喫茶店あたりからは
ルーズリーフへの下書き無しなのでざかざかいきました。
すんなりいきました。うーむ。
いや書いてみるととても楽しい!
こんちくしょう大小凸凹コンビめぇ。(ぁ)
途中ユン姉さんがなんだか魔性の女っぽくなってます。やーん。
でも俺の中でのユン姉さんはとても可愛い人ですよ。ゲヘヘ。

イメージにそぐわないファット兄さんとユン姉さんだったら
申し訳なかとです、チヨたん。
しかも遅くなりまくりですし。
スマソです。
でも年明ける前でに出来上がってよかったあ。

でもあまり季節感が出てないなあ。

03.12.27.





















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