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調練。練兵。軍議。遠駆け。調練。練兵。軍議。遠駆け。 単純明快、単調な日々に、鬱憤を腹に溜め込み、 自ずから気付けぬ憂鬱の中にいる男がいる。 ――――――――――――――――――――――――― 憂晴 ――――――――――――――――――――――――― 司州の元首都である洛陽と荊州、中華の地理的中心である州治の城・襄陽。 その間に南から北へ順に位置する樊城、新野、宛。 等間隔に距離があるそれらの城の内、真ん中に位置する新野が、 現在の劉備軍の駐屯地であった。 劉表の容態が最近思わしくない。 曹操は河北を制し、南下の意気を見せているのがよく分かる。 そこでギョウに対してでも許に対してでも矢面に立つこととなる 新野にて少数ながら兵を擁し、富国強兵ならぬ、富街強兵に努めていた。 長い間、そう、五年以上もの間、一所に留まっている。 練兵や遠駆け以外の日課も当然出来る。 劉備軍の将・張飛は、今日も練兵を終えた後、行き付けの店へと向かっていた。 無論、酒屋である。料理も美味い。店主は精悍で、給仕も若く気立てがよく、 柄の悪い酔っ払いを追っ払うときの彼や彼女らの声は気分が晴れるくらいに気持ちがいい。 五年も一所にいれば、そういう選りすぐりも出来るようになる。 もう一つ、二つ、角がある。 そこを順繰りに曲がればこの夕暮時からもう、その店は賑わっているはずだ。 何しろ、給仕の娘の器量がよい。 それが目当てで店に立ち寄ってから常連となる人間は決して少なくない。 張飛には既に妻も居るし、あくまでも酒目当てだったが、綺麗なものを肴にして飲む酒は、 酒自体が不味くても美味くなるものだ。 後一つ角がある。 ここを曲がれば、豚の肉が焼ける匂いや無頼の男どもの声が、 窓や開け放たれた戸口から段々聞こえてくるはずである。 曲がろうとして、張飛は何かにぶつかった。 こんな所に灯篭や柱や像は無いはずなので、はてなと思い見てみれば、 屹立しているのは他でもない彼の義兄・関羽ではないか。赤兎は伴っていない。 昼間の調練についての示し合わせ以来の偶然的再会に、張飛は無邪気に喜んだ。 「小兄貴じゃねえか!珍しいな、この辺をうろついてるのは」 「益徳こそ何をしている」 いつものように無遠慮に次兄の肩をばしばしと叩いたが、 どうも関羽の雰囲気がいつもより堅い。 思い当たる節が無く、これに対しても張飛ははてなと首を傾げた。 蓄えられた虎髭が揺れる。団栗眼がぱちくりと瞬きを繰り返した。 突如目の前に突き出された紙切れに書かれている ただ一つのみの要項を読み取って、張飛は驚いた。 なんと、それは至って簡素ながら、これから行こうとしていた店からの請求書だった。 しかし自分、つまり張飛宛てではなく、関羽宛て、とある。 それをよくよく凝視した後につ、つ、つ、とゆっくりと顔面を威圧の壁に滑らせて、 関羽の顔を見上げ直した。 「その様子だと、やはりお主のもののようだな、“これ”は」 静かな怒りを含んだ声が、まだ人通りの多い路地に低く響く。 紙切れに書かれた日に確かに自分はすぐそこの店に行って、飲み食いをした。 庶民向けの店で飲んだにしては結構な値段だが、彼にとってはこれくらいが常だった。 しかし大食漢を超越した大食漢である張飛に比べては 少食で、その上倹約家の関羽にとっては、とんでもないものだ。 事を誤魔化すように硬い笑い顔を向けてみるが、 関羽の刺して来るような目つきと静かに、けれど張り詰めた 真剣な表情はぴくりとも動こうとせず、皺一つ口の端に出来そうにない。 もう一度、違う形のひきつり笑顔を浮かべてみる。 やっぱり関羽の表情は全く変わらない。 一声も発そうとはしないで、末の弟を容赦無く裁くといった鋭い視線を目下に注ぐまでである。 夕闇に包まれつつある街の中、二人の間に流れる雰囲気だけが妙に重い。 「…済まねえ小兄貴!その話はまた今度なっ!」 張飛は居た堪らずに、その場で百八十度高速回転した後、一目散に走り出した。 「むっ!待たんか益徳!」 明らかに敵意だとかそういうものを持った人間に待てと言われて待つ馬鹿が、 一体何処にいるものだろうか。いや、居まい。 調練が終わり、漸く楽しみな時間がやって来たというのに、 次兄の説教を受けることなどしたくなかった。 しかも昨日は酒を一滴も飲んだ覚えが自分には無い。 そういうわけで燕人張益徳は、そのまま自分の住む小さな館まで逃げ帰り、 二十歳にもなるかならないかくらい幼い妻に今夜は帰らぬだろうと告げて、 厩から自分の愛馬を曳き、一刻と経たない内に新野の城から逃げ出してしまった。 まさか三十路を越えて、嫁も貰い、いい年になった弟が責任逃れして逃げるとは 関羽も思わなかったようで、一日千里の赤兎馬ですぐさま追い掛けるということも出来なかった。 場所と時間は少しばかり変わって、夕暮から程無い頃、 酒のツケと次兄の説教から逃げんがためだけに新野を出奔し 思うままに栗毛の馬を駆けさせた張飛は、 新野からほんの数里ほど南西に進んだ場所にある朝陽県に差し掛かった。 曹操の南下に備える前線である新野に近いとはいえ そこまで大きな街でもなく、村と言った方が正しかった。 高い土塁や城壁に囲まれているわけでもないし、 店が軒並み並ぶ商店街があるわけでもない。 これくらいの方が、身を隠しやすい。 張飛は今夜は取り合えずここのどこかで睡眠を取り、 次兄の怒りと頭が冷えてしまうのを待とうと決めた。 季節は実りの春だ。少しは飯を分けてくれる家もあるだろう。 無ければ、自分で何かを狩って来て、料理すればいい。 元はといえば自分は肉屋の息子だった。 かくまってもらう代わりにそれを振る舞ってやるのもいい。 無理を言って民の食事を分け与えてもらうよりはそちらの方が当然よいだろうと、 張飛は馬首を村の別の出入り口へと向けた。 近くになだらかではあるが、山がある。 恵みの季節だから狩りをすることはそう難しく無いだろう。 やがて大地からは落日の光も消え失せてしまったが、 案の定獲物はすぐに見つけられ、捕らえることが出来た。 夜半に食べるには手頃な大きさの猪だ。馬の鞍に括りつけてある。 しかし朝陽県の泊まらせてもらおうと思っていた村に戻ってきた頃には、 既に家々の窓から漏れる光は無く、声も一声も聞こえず、 ただ蛙や梟の声が聞こえるばかりで、村中はひっそりとしている。 張飛は下馬すると、どこか家人が起きている所はないかと静かに馬を曳き、歩き出した。 数分すると、少しの明るみと、寺が見えてきた。火も入っている。 神仏への信心など自分には全く無いが、 あそこならば泊めてもらえそうな気が何故かしたので、そのまま進んでいく。 馬蹄が徐々に目立たなくなっていくのが、近付いていくと分かった。 既に時刻は夜間と言っていいくらいなのだが、寺の中は賑やかだった。 寺に似つかわしくない、騒がしい、喧しいと言ってもいいくらいだった。 書や経を諳んじているような声には全く聞こえない。 「御免」 堅苦しい坊主はいないのかも知れないが、 礼儀の成った方の挨拶を声に出してから、張飛は開け放たれたその寺に入り込んだ。 そして、唖然とした。 催されているものは経文読会とかではなく、単なる酒宴だったのだ。 やっぱり坊主は不在なのかと板張りの床の上に居る数人の酔っ払いの男達の顔を それぞれ見渡してみると、なんと真ん中に立って宴の席を盛り上げている者こそが、 髪を剃り上げた坊主だったではないか。肥えてはいないが若いとはいえない、中年だ。 周りの人間のざわめきがそれまでのものとは違ってきた。 こそこそと何かを囁き合ったりする者が多い。 意識と視線が自分に集まっているのが、すぐに分かる。 もう、荊州に身を置いて、五年が経つ。 自分の風貌は長兄に付き従う将軍として知れ渡っていたとしてもおかしくない。 「これは、これは。その虎髭、熊の如き胸、真円の双眸。 新野の張将軍ではございませんかの」 坊主らしき中年が乱れた袈裟を直しながら立ち上がって、挨拶にやって来た。 片手には木を彫って作ったらしい、中々いい形の徳利を携えている。 物音が小さく、静かになって来た。男達それぞれの息遣いまで聞こえてくる程だ。 落ち着き、しっかりとした足取りで自分の前までやって来た中年は顔にあまり皺が無いが、 口元は始終緩んでいて、そこにだけ尺取虫のような皺が刻まれたままでいる。 「お初にお眼にかかります。愚僧は季浄と申し、 一応はこの寺の和尚ということになっております」 「何事だ、これは」 「数年前から、月が丸い日の夜と月が黒い日の夜は、いつもこうなのです」 世は乱世で、ここは曹操南下前線の新野から近い、近すぎる、つまりは激戦区である。 どこまで平和ボケした土地なのだろうかと、 この三十年来ほどの人生を戦ってばかりいて過ごしてきた張飛は、一瞬眩暈がするほどだった。 「徐州の民のようになるとは思わんのか」 「成り得ませぬのう。曹丞相は一応は漢王朝の臣の立場を守り続けておられ、 よって謀反を起こそうともしていない罪無き私どもを大虐殺しようなどとは、一切思いませぬ。 利というものがございませんからな。 もしもそうしようと曹丞相が考えておられたとしても、 他でもない張将軍や、劉備将軍、関将軍様等が善き様になさることでしょう」 「利か」 確かに荊州に侵攻し、理由も無く徐州大虐殺の再現をしたとしても、 曹操にとっての利益は全く無い。むしろ肥沃なこの土地には、 人は、いくらいても困らない。いた方がいい。 烏丸や匈奴や山越族のような異民族がいるわけでもないのだから、 民心を安撫し、栄えさせるべき大地なのだ。 前線に、民を決して裏切らぬ徳の将軍として流布される劉備率いる軍が駐屯しているからこそ、 この村の者達は安心して、留まりつづけているのだろう。 これが蔡瑁や張允などだったら、既にもぬけの空となっているはずだ。 黄祖ならば彼らよりはまだましだったかもしれない。 尤も、今は孫策に代わり新たに君主として盛り立てられている孫権が 父の仇と夏口の地と彼の首を狙っているため、身動きが取れない。 例え身動きが取れたにしても、彼の他に孫軍の矢面に立つ夏口の地を 守備しようという気骨がある者が、果たして劉表幕下に居るものだろうか。 そうした考えを頭に巡らせている間に、元のざわめきが徐々に戻ってきた。 「将軍様も、お飲みなせえ!」 「そうじゃ、一緒に飲みましょうや。 張益徳将軍は、他人に比肩を許さぬ程の酒豪だと、有名ですぞ」 民の男一人が声を上げた。 それに更に続いて、数人が元気よく、億面無く張飛を酒に誘う。 平和ボケした他力本願な民と坊主相手に酒を飲むというのも面白いかも知れない。 乗り気になる。 酒があればそれでいいという気持ちも無くは無い。 「それがいい、それがいい。食う物はそんなに無いし濁り酒だが、 天下の豪傑・張将軍のお話を聞きながらなら、美味くなるに違いねえ」 「つまみが無いのか」 他よりも少し大柄な男が言った事に対し、張飛は質問した。 確かに場を見渡してみれば、酒の瓶や椀はあるが、 料理の皿は一つも見当たらない。 「持ち寄った木の実が少しばかりあるくらいです。 荊州は恵まれた土地ではございますが、流石に余剰の食い物を蓄えもせずに 酒のつまみにするというのは、なんだか勿体無いという気が致しまして」 「それならば、持ってきてある」 張飛はくるりと踵を返すと、馬を繋げた門柱まで走った。 鞍に提げさせた猪を脇に抱えて持って行ってやると、 皆歓声を上げ、大喜びした。 「こんなにでかい獲物を!流石は、張将軍だ」 「これを俺が料理するから食おうじゃないか」 「将軍は、お見かけによらず気が利くお方ですな!」 一言余計だったが、可笑しく感じて、笑った。 寺の中に篭もった男くさい酒気が、 鼻腔から身体の中に染み込んできているのかもしれない。 そんな訳は無いのだが、そういう気になれる。 「しかし季浄和尚、いいのか」 「何がでございましょう?」 季浄は呷っていた木徳利を口元から離した。 相変わらず、ただにこにことしている。 こんな坊主を張飛は初めて見た。 何故だかは分からないが、簡雍を思い出した。 「寺で肉を喰らうなど、和尚が黙って許していいことでもないだろう」 「将軍にはこの場が未だ、寺に見えますか?」 「ただの宴会場の、あばら家だ」 「そうでしょう。つまり、寺としての役割を果たさぬ今は、よいのです」 会話の途中、数人の男達が、薪を取りに行って来ると行って出かけて行った。 それでも寺の中には十人以上の男が残っている。 女子供は一人もいない。 「とんだ生臭坊主だな」 季浄がそれを聞いて大笑いしたので、張飛も遠慮無く破顔一笑した。 荊州北部に朝日が差す。 朝陽県の小さな村にある寺も、分け隔て無く照らされる。 あいつはこの数年間で、自分がどれだけ有名な人間に なっているのかということを全く理解していないのだな、と 栗毛の馬が起き出してきたのを見ながら、関羽は感じていた。 「お前の主人は、見つかりはしないとでも思っているのだろうか?」 新野を出て行ったらしい張飛を、朝になってから少数の兵と共に探し始めた。 劉備に報告もした。命ぜられるまでもなく探す気しかなかった。 早い時間だったが、働き者の民草達は既に目覚め、活動し始めていた。 情報収集に行かせた歩兵達は数々の目撃情報を持って、すぐさま戻ってきた。 その情報に従ってやって来たのがこの朝陽県の古寺だった。 事実柱に繋がれているのは張飛の愛馬である。 大椀で酒を振る舞われた後がある。 不具合が起こっては困るから馬に酒をあまりやるな、と前にも言ったのだが。 赤兎をその馬と共に繋ぎとめて、境内に入る。狭い。 すぐに、東屋のように小さな寺院の中に足を踏み入れられる。 扉は開け放たれていた。 多分、死屍累々という言葉が一番似合った状況なのだろう。 張飛の厳しい練兵を受けたことがある歩兵がついて来て、中を見て、ぎょっとした。 「…酒くさいな」 「はい。相当に」 過ぎた酒と夜更かし、二日酔いに悶え苦しむ者が数人。 安らかに眠る男の数の方が明らかに少ない。 十人を越える村の男達の真ん中で一番満足そうに眠っているのは、 昨日自分の前から逃げていった弟と、 弟に比べては二回りほど小柄な、この寺の和尚と思しき中年の男だった。 いい夢を見ているのか、二人とも口の端に皺が一本、二本、刻み込まれている。 両人の小脇と傍らには、何本もの瓶、何杯もの椀、 それに肉汁でべとついた皿、更には太い骨が落ちていた。 綺麗に肉を切り取られた猪の骸を、関羽は久し振りに見た。 (まだ髭も生え揃ってない頃のような酔いつぶれ方だな) これだけ思い切り飲んで食ったなら、大分鬱憤は晴れたのではないだろうか。 だが、たまには以前のように、義兄弟三人揃っての遠駆けくらいした方がいいだろう。 長兄も馬を走らせることが少なくなり、太ってしまった脾肉を嘆いている。 「全く…お前って奴は…ろくな規則しか、作らんな」 挙兵時、馬商人・張世平とその甥の蘇双に出逢う寸前に 自分に対して言った文句を寝言で不明瞭に呟く弟の頬を、 関羽は朝日が差し込む古寺の中に小気味良い音を響かせて、ひっぱたいた。 --- おわり --- 帰 --- あとがき --- 三晩ほどで軽い気持ちで書き上げた張飛が主人公の小説。 なんでこんな話を書いたのかと言いますと、 吉川(横山)劉備も関羽も寺の和尚に助けられたという 話があるのに、張飛にだけそういう話が一つも見当たらないんです。 私がまだ見聞きしたことが無いだけだとは思いますが。 実際私が聞き逃しているだけでそういう話がどこかに在り得たにしても、 それは地方の伝承などとして取り上げられているのみで、 三国志演義や張飛伝に掲載されて、 広く中国中に流布されているわけではないでしょう。 まだ若輩者とはいえ、横山に吉川に北方に、 反三国志まで読んでいる(現在進行形)私が知らないのですから。 すげえ自意識過剰で、自惚れまくりな発言ですが。 (これで張飛伝にそういう話が載ってたら私どうしよう。 蛇矛に首チョンパされて逝って来るしかない、それしかない) 張飛は結構好き勝手動いてくれるので書きやすいです。 こういう所も庶民に愛される性格の一つなのかも知れませんね。 …でもあんまり面白く書けなかったな。 こんな小噺でしたが、お読み頂けた方、お疲れ様です。 どうもありがとうございました! 05.05.30. 翼徳でなく益徳なのはなんとなくです。 実際に伝わっている本当の字の方を尊重すべきかな、とか おぼろげに思っただけです。 うさばらし。 |
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