++ 雪見酒++


品川は鮫洲のあたりに敷地を構える土佐藩邸。
低くたれ込めた厚い雲から身を隠すように、僅かな供を連れただけの女駕篭がひっそりと門をくぐる。
目立たぬよう地味にこしらえてはあるが、決して屋敷に見劣りするものではない。
慌てて出てきた数人の藩士に迎えられ、客人は悠然と駕篭を降りた。
興味深そうにちらちらとその様子を盗み見る町人たちの目にどうにか映ったのは、おそらく顔を隠すための布を優雅に頭に巻いた、見事な加賀友禅の後ろ姿であった。

―――土佐の大殿さまが、またあんな美人を・・・―――

羨望まじりの醜聞が、またも市井に広まっていく。
それほどに、この藩邸の主、山内容堂の放蕩ぶりは凄まじいものだった。

そんな世間の喧噪から切り離された藩邸の奥の間に通された客人は、まだ昼にもならぬというのにだらしなく寝そべって、頬杖をつきながらちびりちびりと酒を呑んでいる容堂を見て、露骨に顔をしかめた。
案内してきた側女は、障子を閉じると丁寧に頭を下げてそそくさと立ち去る。

「・・・わたしはこんな苦労をしてまで忍んで参ったというのに
 朝から酒とは、いい身分ですな。」

これみよがしのため息をつきながら、客人・・・松平春嶽は顔を覆っていた布をハラリと解いた。女物の着物にちょんまげでは流石に珍妙すぎるので、坊主の頭巾のように布はかぶったままだ。
その陰から覗く肌にはまだ若さとハリがあり、唇はぽってりと厚い。
それだけ見ていれば、どこか名姫だと偽っても充分に通るだろう。
手にした盃をぐいとあおり、容堂は手を打って喜んだ。
「あっはっは、なかなか似合うではないか。これから密談の際はこの手を使うとしよう!
 そうだ、その姿で梅見物にでも行くか。
 ほれ、しなだれかかって酌でもしておれば、誰も春嶽とは気付くまいて。
 こりゃぁいいぞ。よし、今から稽古だ。ほれ春嶽、ぼけっとしとらんで酌せんか。」
「なんと・・・・・・。」
目の前の酔いどれは、すっかりいい気分で盃を突き出している。

―――これでは密議もなにもあったものではない。まったくこの男は・・・
   どれだけの危険を覚悟でここまで忍んで来たのか、わかっているのか。

自分を睨みつけ座ったまま動こうとしない相手に痺れをきらしたのか、容堂はおもむろに乗り出し、春嶽の腕を掴んでぐいと引き寄せた。
若いころから力自慢で慣らした男である、たいした苦もなく崩れた春嶽の体は、腕の中にすっぽりとおさまった。

―――蛇足ではあるが、御親藩の藩主を務めるだけあって、春嶽の趣味は品のよろしいものを好む傾向が強く、また風雅にも極めて精通していた。
変装のための着物にしてもきちんと吟味して選んだものであったし、京から取り寄せた上等の香もたっぷりと焚きこめてある。・・・要するに凝り性なのだ。
もちろん、女駕篭を怪しまれないための支度の一環であっただけの事なのだが。

その、公家のたおやかな姫君を連想させるようなおごそかな香りが、ふわりと容堂の鼻をくすぐった。
山内容堂―――力自慢であるとともに、これまたひどく風雅を愛した男でもある。
その雅やかな芳香と、滑らかな絹の感触が・・・、不運なことに酔いの回った容堂の本能を刺激した。
似通った嗜好を持つ者が凝らした趣向なのだ、それが容堂の好みに非常に適していたとしても不思議はない。
腕の中にいるのがたおやかな女人であったような都合のいい錯角に陥り、怒りと驚きで蒼白になった春嶽の顔色に気付きもせず・・・ついつい、骨ばった白い脚に手を延ばしてしまった。

ぶつん・・・と音をたてたかどうかはわからぬが、ぶっつりと春嶽の堪忍袋の緒が切れたのは言うまでもない。

「何をしておるのか・・・この、痴れ者めが!!!
 人の苦労も知らずに朝から大酒なんぞ食らいおって・・・!」

自分を抱えたまま鼻の下をのばしている大男を突き飛ばし、倒れた時に散らかった膳を蹴ると仁王立ちになって怒鳴る春嶽。
普段温厚だと言われている男の剣幕に、さすがの容堂の悪酔いもすっかりひいた。
だが・・・。
ここで素直に謝れる酔鯨公ではない。
ムッと唇を尖らせると、容堂は不貞腐れることに肚を決めてしまった。

おもむろに倒れた銚子を拾って再び酒を呑みはじめる。

「・・・馬鹿馬鹿しい、帰る!!」
その太々しい態度が火に油を注いだのか、春嶽は吐き捨てるように怒鳴ると、力任せに障子を開け放った。

―――刺すような外気が部屋に流れてくる。外は、みぞれ雨が降り出していた。
部屋に面した庭が、冷たい雨に濡れぼそっている。

「春嶽さま・・・し、しばしお待ちを・・・!」
「どうか、いましばらく!!せめて雨が止みますまでは・・・」
怒声を聞いて慌てて駆け付けたらしい数人の若侍が平伏して春嶽の行く手を阻む。
腹立たしいとはいえ、この雨の中を駕篭で帰るのは春嶽としても有り難いものではない。
ためらった一瞬をついて、気のつく者がさっと火鉢を差し出した。
「お寒うございましょう、火鉢をお持ち致しました。
 せめて駕篭のご用意ができますまで、今しばらくお待ちくださいますよう。」

結局あれやこれやとなだめすかされて、春嶽は再び腰を落ち着けることとなった。
ふたりの間には火鉢が置かれ、それぞれには改めて酒膳が整えられた。

「・・・・・・・・・。」
視線を交わすこともなく、春嶽は無表情のまま黙って座っている。
重い空気がたれこめたひどく気まずい部屋の中で、まるでそれを紛らわせるかのように、容堂はひとりちびちびと酒を呑み続けていた。

「・・・あ。」
逆さにして振った銚子から、一滴二滴、酒がしたたりおちる。
どうしようかと迷ってはみたが、自分のせいだとわかっているだけに、酒なしに重苦しいこの場にはいられない。

仕方なく、容堂が追加を持って来いと声を張り上げようとした時、ぬぅと目の前に銚子が差し出された。

驚いて顔をあげると、そこには春嶽の面白くなさそうな顔がある。
くい、と顎で示すのでつられて盃をあげると、苦虫を噛み潰したような顔のままで春嶽は銚子を傾ける。
吹き出したいのをどうにか堪え、容堂はひといきに酒を干して盃を突き出した。
無言のまま、春嶽もそれに酒を満たす。

盃を重ねるたびに、仕方なさそうな諦め顔になっていく春嶽。
気まずそうに上目使いに様子を伺っていたのが、酒のせいだけでなく、次第にやんちゃな態度が大きく出てくる容堂。

女中頭も心得たもので、どうやらふたりの間に和議が成立したらしいことを察知し、
容堂愛用のひょうたんをそっと置いてそそくさとさがっていく。

・・・外のみぞれ雨がすっかり雪に変わるころには、はたから見れば仲睦まじく
盃を交わすふたりの姿がそこにあった。


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