++ バレンタインフェスタ〜市之允〜 ++
松陰が生きていた頃よりは、少しだけ背も伸びた今日この頃。
あの頃は、年少組と呼ばれて使い走りのような事しかさせてもらえなかった市之允だったが、この頃は連盟書に血判を押したり、久坂の提唱した「一燈銭申し合わせ」に参加したりと、市之允本人としてはすっかり志士達の仲間入りを果たした気分である。
だが、彼らが学問に励み、仲間達と議論を交わしている合間にも
故郷である萩を飛び出した久坂は江戸や京を行き来し、皇女和宮の降嫁に反対し、長井雅楽の政策に真っ向から立ち向かい・・・とにかく妥協を知らぬ、猪のような獅子奮迅ぶりを見せていた。
それだけでも十分尊敬に値するのに、久坂はとうとうその主張を机上の空論で済まさず、ついには長井雅楽を失脚させてしまったのだ。
もちろん、少し考えれば、それが久坂一人の力によるものでない事はすぐにわかる。
だが。松陰が情熱を傾けて教育したこの少年たちの目に、久坂が驚くべき偉人として映ったとしても致し方あるまい。
久坂と国事を語らうために、市之允は更に熱心に勉強したし、
久坂が語る論が理解できるようになると、その的確さに驚かされて、ますます彼に傾倒していくことになる。
市之允の中では、久坂はすっかり英雄だった。
書物を借りたり、あるいはその内容について意見を聞かせてもらったり、とにかくあれこれと理由をつけて、久坂の元へ通う日が続く。
膨らんでいく知識とともに、ウキウキとした春の訪れのような気分が胸を満たしていく。
早く大人になりたくて、いつか久坂らと共に志士活動に身を投じることを夢見ていた。
そんなある日のこと。
こじんまりとした小さな家の庭先で、久坂と入江が何か話していた。
まるで世間話でもしているような気安さで、ふたりとも穏やかな微笑をうかべている。
「なんだか顔色が悪いな、久坂・・・ちゃんと寝てるのか?」
「ああ・・・なんだかゆうべは書き物をしてたら時間が・・・」
「駄目だぞ、休める時にちゃんと休んでおかなくちゃ。
焦る気持ちはわかるけど、医者の不摂生だなんて笑えないからな。」
「ああ・・・うん、気をつけるよ。」
気まずそうに笑ってごまかす久坂は、いつか見てしまった寝顔のように屈託がない。
その光景を、市之允は生け垣の陰から覗いてしまった。
耳に入ってくる言葉は、どれもまったく自然なもので・・・むしろ、何故今まで気づかなかったのかが不思議なくらいだった。
・・・まだまだ、久坂と対等になんてなれてはいない。
自分は今でも年少の後輩者で、久坂の隣に立つにふさわしい人間は他にいくらでもいるのだ。
そう、ああやって無防備な笑顔を晒せるような相手が・・・。
―――独り占めしたかった訳ではなく、ましてや・・・
唯一無二の存在になりたかった訳でもなかったけれど・・・。
ぼう然とした頭に、まるで他人事のように「現実」がゆっくりと染み込んでくる。
胸の痛みすらよくわからないまま、視界がゆがみ・・・涙が溢れてきた。
自分が悲しいのか、悔しいのか・・・何故泣いているのか、わからない。
ただ、自然に涙が溢れ、それがとめどなく流れていく。
そのまま、どれくらいの時間、市之允はそこで立ち尽くしていたのだろうか。
吹きつける風の冷たさも忘れたように俯いたきり、身動きもしない少年。
ただ、突然つきつけられた現実が、痛かった。
「市・・・?どうした?」
ためらいがちにかけられた声は、幼友達の弥二郎のものだった。
顔を上げると、少し間が抜けた埃まみれの馴染顔がそこにある。
・・・嗚咽がひとつ、喉をついた。
友達の顔をみて安堵したのだろうか・・・そのまま、堰を切ったように気持ちがあふれ出す。
四肢を切り裂くような、胸の痛み。
それを癒せるのは涙を流すことだけなのだと、
まだ少年は知る筈もないのに・・・
それしかできなくなった壊れた人形のように、ぽろぽろぽろぽろと涙をこぼす。
少し低い位置にあった市之允の頭をこつんと自分の肩にもたせかけると、困ったように眉を寄せて弥二郎は空を仰いだ。
楽しいわけじゃない。けれど逃げ出したいわけでもなく・・・
こうやって少しづつ大人になっていくのだと、誰に教えられることもなく
彼らは心の奥底でちゃんと理解しているのだ。
・・・今は、泣けばいい。
それが、淡い初恋なのか、ただの憧れだったのか・・・
そんな事はどうでもいいから。
ただ、まっすぐに、正直に・・・
決して逃げることなく、「今、在る自分」に対面すればいいのだ。
そうしていつかもう少し大きくなった時に、今の彼らと同じような少年達が
きっと彼らの生き様をみて、心をときめかすのだろう。
―――人の歴史は、そうやって紡がれてきたのだから。
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