++ バレンタインフェスタ〜市之允〜 ++
主である松陰を亡くしてから、松下村塾はすっかり寂しくなってしまった。
一時はあれほどいた塾生たちもすっかり姿を消し、「勉学の灯火を消してはいけない」と主張する久坂玄瑞が時折勉強会を開いてみても、集まるのはほんの数人だったりすることもある。
そんな、ある日のこと―――。
数日前に勉強会があるという知らせを受けて、山田市之允も久しぶりに仲間の顔を見ようかと松下村までやってきた。
日没の勉強会まではまだ間があるので、ぶらぶらとそこいらで時間でも潰そうかと思っていた矢先。
狭い塾の中を忙しそうに歩き回る図体の大きな男の姿が目に入った。
慌てて市之允が声をかけると、たすき掛けで雑巾を絞っていた男が顔をあげる。
「・・・久坂さん?」
「やぁ、市之允。なんだぁ、皆が来る前に掃除してしまおうと思ってたのにな・・・。
こんなに早く来る奴がいるとは思わなかったよ。」
「なんで久坂さんが掃除なんて・・・あ、手伝います!!」
ひったくるようにして雑巾を取り上げると、市之允はそこいらをごしごしとこすりだす。
そうしてみるて初めて、家の中が随分と埃や砂にまみれて汚れているのがわかった。
もともとこの離れは、彼ら塾生たちが勝手に作ったもので、きちんとした仕事ではなかったからすき間があちこちにあるのだろう。
雨風に当たって痛んでしまうのは、仕方のない事だった。
「・・・たまにこっちに帰ってきた時くらい、手を入れてやりたいと思ってね。
家の人がやって藩にでもみつかったら煩いし・・・
それに、こうやって床板を磨いてると、なんていうか・・・
気持ちが沸き立ってくるんだよ。もっと頑張らなくちゃ、って。」
寂し気に曇った市之允の表情に気づいたのか、のんきに笑いながら久坂が言う。
振り返って見たその笑顔は、とても穏やかで、前向きで・・・
師に対する処分を恨んで立ち止まっているようにはとても見えなかった。
―――この人は、もうこんなに先を歩いてるんだ・・・
本当のところ、松陰が処刑された後、藩からの処分を恐れて活動を控えた仲間達や、あまりこの地に寄りつかなくなった者達を少しばかり薄情だと恨んでいたのだ。
・・・勿論、それには自分も含まれるのだが。
何かできるわけではなく、かといって松陰や仲間達と過ごした村塾での時間を忘れることもできなくて。
その気持ちが萎えて消えてしまうのが怖くて、時々こうやって申し訳程度に集まりに顔を出す。そんな自分に嫌気がさしていた時だったから、久坂の言葉はひどく痛烈に市之允の心を突き刺した。
―――今までは、ただ漠然と憧れてただけだったけど・・・
こんな風に、いつもひとりで建物を磨いていたのだろうか。
自分達でさえ気づかなかった塾の汚れにまで心を砕くような人なら、
忙しく各地を飛び回る傍らで、師の志をなぞる事を忘れないような人なのなら・・・
気持ちを、気持ちのままで終わらせてはいけないのだ。
松陰の死を悼む気持ちは皆の胸の中にある。だけど、本当にそう思うのなら、その死を無駄にしないために行動しなくてはいけないのだ。
松陰の教えが消えてしまわないように・・・塾が忘れ去られてしまわないように。
そう思うのなら、それらを引き継ぐ努力をしなければ。
ただ悲しくて、不安で、未来が見えなくて・・・
どこへ向かえばいいのかわからず佇んでいた市之允の前から、すうっと霧が晴れていくようだった。
「だいぶ奇麗になったな、ありがとう市之允。
君のおかげでずいぶん早く終わったよ、助かった。」
言いながら、久坂は縁側に腰を下ろした。少し肌寒くなった風の中、ちょうど夕陽があたって気持ちいい。
何を話していいかわからないまま、久坂の隣に正座する市之允。
その隣で伸びをして、目を瞑ったまま深く風を吸い込みながら、久坂は気持ちよさそうに呟く。
「ああ、懐かしい匂いだ・・・やっぱり長州はいいなぁ。」
「久坂さん、今まではどこに居たんですか?」
「うん・・・京都に、ね。昨日の夜、こっちに着いたんだ・・・」
「京都・・・ですか。全国の志士たちが集まってるんですよね。」
「・・・・・・・」
「今度、京都の話もゆっくり聞かせて下さい!」
「・・・・・・」
「・・・?久坂さん?」
急に黙りこくった久坂を訝しく思って市之允が振り向くのと、ごつんと肩に衝撃が走ったのはほぼ同時だった。
首を捻ったすぐ目の前に、微かないびきをたてながら幸せそうに眠る久坂の顔がある。
ゆうべ帰ってきた言っていたから、疲れているだろうという事はわかるけれど・・・。
―――面白い人だなぁ・・・。
憧れの先輩の寝顔を間近に眺めながら、市之允は沈んでいく夕陽に、ようやく見えてきたみずからの道を貫くことを、堅く誓うのだった。
―――黄昏の中、少年の小さな胸に淡い恋心が芽生えたのは、この時からだったかもしれない。
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