++ 時の潮++
―――時は巡り、機は熟す。
どんなに焦がれ待ち望もうと、定められた瞬間までは決して急ぐことなく
そして訪れないで欲しいと、どんなに嘆き、祈っても、それは必ず・・・
無情なほどの残酷さと決して抗うことのできぬ強大な力を以て、時代は人を押し流してゆく。
時にはそっと背を押す母親のような優しさで、あるいは大鎌を振るう死神のような冷たさで・・・
どんな人間のうえにも平等に、太古の昔からそうやって流れているのだ。
そして・・・。
雪に埋もれたこの小さな村で生活を営むこの男にも、「時」が訪れようとしていた。
これといって目立つ特徴のない、どちらかといえば小柄な男。
彼がこの村に現れてから十月ばかりが経っただろうか。
誰かの親戚といったか、それとも娘婿だったか・・・
あまりに自然のことだったので、そんな事すら誰も気にとめてはいなかった。
小さな商いの店を出し、貧しいながらもささやかな生活の幸せを守る男。
時折なんとも切なそうな顔で西の空を見上げ、鮮やかな夕焼けからは目を反らす。
そんな仕草でさえ、生活に疲れた村人たちの間では訝しがられることもなく
このままこの地に埋もれてしまうのもいいかもしれない、と思い始めた頃・・・。
この小さな村に、ひとりの女がようやくたどり着いた。
白い肌は土埃と垢にまみれ、細い指や足は傷だらけだ。もともとは上等だったと思われる着物もすっかり色褪せ、あちこちがほころび破れてしまっている。
同情して集まってきた村人たちに、女は京訛りのかすれかけた声で、人を探しているのだと告げた。
汚れた顔を見られたくないのか俯いたきりの女は、とても美しかった。
やがて、親切な村人たちに案内されて、男と女が再会を果たす。
恋しい男の元気な姿に、思わず瞳を潤ませる女―――、幾松。
抱きしめて欲しいと、自分を求めて差し伸べられるしなやかな腕を見つめながら、男は静かに息をのんだ。
頬を染めて目の前に立つ女の、滑らかな白い肌。そのぬくもりは片時も忘れたことなどない。
それはまぎれもなく、愛おしさをこめて何度も抱いた女の腕だったけれども・・・。
―――これは、『時』が差し伸べた、手だ。
男は、そう、直感していた。
神の存在など、信じてはいない。
そんなものが居るのなら、何を犠牲にしてでも叶えてほしい願いがあった。血を吐くような思いで綴る、祈りがあった。
・・・神なんて、そんな慈悲深いものは、この世に存在しない。それは、自分の人生においてしっかり骨身に染みてきている。
あるのはただ、無感情にうねる時勢の流れだけなのだ。
氾濫する川の流れと同じように、無数の命を奪っておきながら、運がよければ後に肥沃な土を残していってくれる。
そんな人間の喜びや悲しみなどとはまったく無縁に紡がれる、自然の理なのだろうか。
人の身ではとうてい抗うことのできない強大な力・・・。それは、まるで悪夢のように彼の同胞の命をことごとく奪い、愛おしい故郷をこの日の本の国の中でたった一藩のみを孤立させてしまった。
その『時』が、表舞台に戻って来いと・・・自分に手を差し延ばしている。
若い仲間たちの命をみすみす散らし、何の手だてを講じることもできぬまま都を追われてきた自分が。
―――もう一度、戻ることができるのだろうか。
「みなさまがお待ちどすえ。」
懐かしい都言葉で幾松が、そっと微笑んだ。
忘れかけていた京の風が、男の胸の中でゆらりとうねる。
死んでいった仲間達を弔いながら、この村に骨をうずめてもいいと思った。
一生、無力だった自分を責め、ひっそりと背中を丸めて死んでいきたいと、思った。
だが。
差し出された手をとり、ゆっくりとひきよせる。
女は、汚れた身なりを気にしながらも、嬉しそうに男の腕の中に崩れた。
―――再び機会が与えられるのなら、俺は全てを賭して戦おう。
死んでいった者たちへの、せめてもの贖いのために。
許されることなどないだろうけれど、せめて彼らのように最期まで挑み続けよう。
・・・彼らと一緒に願った、新しい国をつくるために。
愛おしい女の細い肩をきつく抱きしめながら、桂小五郎は遠い先を見つめていた。
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