++ 遺したもの++
そっと背を撫でる秋風に振り返るようになったのはいつの頃からだろう・・・
燃えるような夕日にぼんやりと佇むようになったのは、一体いつからだったろう・・・
若い頃から決して風雅を理解しない人間ではなかった。むしろ詩人になりたいとさえ思った事もあったほどだが・・・どうにも気ばかり焦る毎日で、こうしてゆったりと時間の流れに身をひたすようなことはなかったように思う。
高杉は縁側まで這い出してくると、ひょうたんを片手にどっかりと腰を下ろした。柱にもたれればいい案配に夕焼けに燃える山が見える。
床の中にいるよりは外の風に当たっているほうが幾分気が晴れるのだろう。
厨ではおうのが夕餉の支度をしているのか、ガタガタと物音がしている。
町中の賑やかな喧噪から離れた穏やかな暮らし。
持て余すほどの暇を抱えて、高杉は残されたわずかな時間を過ごしていた。
―――・・・あんなに激しかった焦燥感が、いつのまにか消えちょる。
俺の人生の、いわば夏の名残りじゃったんか・・・ ―――
ひょうたんから注ぐ透明色の液体を、盃に移してぐいとあおる。
臓腑に染み渡る酒が、まるで身体を内から焼いているようだ。
桜山にかつての友を供養し、居を構えてその墓守りをきどってみたものの・・・
近頃では庭に出るのも億劫なほどに体調が思わしくない。
人生の「冬」が訪れようとしているのを、肌が実感していた。
何かがぽっかりと抜け落ちたような喪失感が、たまらなく高杉を責めたてた。
何もできない抜け殻のようなこんな身体で、何故自分はいまだに生き長らえているのだろう・・・。
志を貫いて散っていった友のように潔く逝きたいと思いながらも、このまま忘れ去られていくのが寂しいと現世にしがみつく自分がいることも自覚している。
「高杉さん。」
不意に自分の名を呼ばれ、高杉は現実に引き戻された。
いつの間にか、黒い筒袖にダンブクロといった奇兵隊の揃い装束を着た山県が、目の前に立っている。
「今日はええ鯉が入っちょったんで、あとで届けるよう魚屋に言うときました。」
いつも仏頂面の山県が、ここへ来てはつとめて穏やかな笑顔を見せるようにしている。
以前はそれがまた勘に触ったのだが・・・最近では、それも彼の気遣いなのだと受け入れる事ができるようになった。
「ああ・・・また生き血か。ありゃぁ飲みにくいんじゃが、有り難く頂いちょくわい。」
苦笑いを浮かべて、山県に縁側へ座るよう顎をしゃくる。
「そろそろ風が冷たくなってきちょります・・・中へ入りましょう。」
「うむ・・・。」
おとなしく肩を借り、抱えられるようにして部屋へ戻る。
体重を預けた一瞬、山県の顔が曇るのを高杉は見のがさなかった。
「だいぶ軽くなったじゃろう。今じゃぁ俺の面倒も、たいていの事は
おうの一人で大丈夫じゃ。手間のかからん病人じゃろう、ははは。」
笑いながらもどこか虚ろで醒めた目は、山県の肩越しに、亡くなった松下村塾の同志たちを祀った・・・あの桜山を映している。
それが不安なのか、山県は面を曇らせたまま無言で高杉をそっと寝床に下ろした。
「そろそろ墓の掃除をしに行ってやらんといけんのう・・・」
まるで恋しがるように痩せ衰えて筋ばった手を山へとさしのばす・・・。
――― 弔むらわる 人に入るべき 身なりしに
弔むらう人と なるぞはずかし ―――
自作の句をくちづさみ、懐かしそうに目を細める高杉。
仲のいい井上や伊藤・・・桂にさえ見せないこの恋情は、美しく死んでいった者だけが得られる、いわば勲章のようなものなのだろうか。
自分では決して手に入れることのかなわぬその想いに、山県は密かに嫉妬の念を抱いていた。
想いを寄せるだけでは飽き足らず、何時「彼等の元へ行く」という誘惑が「生きる」ための気力に打ち勝ってしまうかわからないのだ。高杉の快復を願う者としては気が気ではない。
弔われた恩師や旧友たちを、この現世から高杉を連れ去ってしまう死神のように思った事もあった。
自然、こわばる山県の表情に気付き、高杉はふっと話題を変える。
「お前も忙しいんじゃろうに、いつも済まんな。
次はこんな辛気くさい見舞いなんかじゃぁなく、揚げ屋で飲もう。
太鼓持ちを呼んで・・・芸者は5人・・・おうのに三味線を弾かせて騒ぐんじゃ。」
「・・・是非、誘うて下さい。」
そんな事ができない事は、誰よりも自分がわかっている筈なのに・・・。
お互いにそれは百も承知だった。それでも・・・おそらく叶うことのない約束を交わす。
他愛のない会話、穏やかな微笑・・・懐かしい村塾の話に及ぶと、話題は尽きることがない。
やがて、くたびれたのか高杉の咳が酷くなり、別れを惜しむ病人に首を傾げつつも、山県は東行庵をあとにした。
数日後、奇兵隊本部のある吉田に使者が訪れた。おうのからの遣いで、揚げ屋の屋号の書かれた紙を持っている。ここで高杉が待っているからすぐに来て欲しいと、使いの者は告げた。
――― まさか、あの約束を本気にして・・・? ―――
慌てた山県はとるものもとりあえず、馬を飛ばして店へ急いだ。
だが、駆け付けた部屋には誰も来ておらず、用意の整った膳だけが不安を煽るように冷えてゆく。
そこへ2度目の使いが息を切らせて駆け込んできた。
・・・高杉が、危篤だという。
再び馬上の人となった山県は必死で鞭をふるった。
おそらく・・・おそらく、高杉は『その時』が迫っているのを感じ取ったのだ。
だから、あの他愛のない約束を守るために無茶をしたのだろう。
いや、もしかしたら約束を守ろうとして無茶した挙げ句に、病状が悪化したのかもしれない。
ぐっと唇をひき結び、山県は矢のように馬を走らせる。
―――まだ連れて行かないでくれ・・・松陰先生・・・久坂、入江・・・。
新しい時代には・・・いや、俺達にはまだ高杉さんが必要なんだ。
頼むから・・・頼むから、間に合ってくれ。―――
必死の祈りが通じたのだろうか、どうにか山県は「間に合う」ことができた。
汗を流し蒼白な顔で枕元に駆け付けた山県に、高杉は苦し気な息のしたで「どっちが重病人なんかわからんのう。」と力なく笑った。
「負けんでください!高杉さんがいなくなったら奇兵隊は誰に従ったらええんじゃ。
まだ逝かんで下さい。やり残した事がたくさんあるでしょう!!」
「・・・後の事は、大村さんに・・・な。」
取りすがる山県に、高杉は穏やかに笑ってみせる。
それが切なくて山県は唇を噛む。何故、皆今際の際になってそうやって笑うのか・・・。
そうやって高杉もまた、理想に殉じた仲間の元へ旅立っていくのか。
おそらく・・・おそらく、自分は入れない純粋な志士たちの安息の場所へ。
高杉が親しくしていた野村望東尼が代わって枕元に進み、辞世の句をしたためるための紙を筆を握らせる。
震える手が文字をしたため・・・しばし迷うように止まると、腕はそのまま床に落ちた。
―――昏睡状態に入ったのだと、医師は告げた。
しんとした室内に、鼻をすする音が静かに響く。
わずかに開いた高杉の口からは、苦し気な息ももうほとんど聞こえない。
・・・一瞬、もがくように唇が動き、途切れかけた言葉が漏れた。
全身を耳にして、一同はその唇を見つめる。
「・・・よしだへ・・・・・・」
最期の言葉を遺し・・・高杉は旅立っていった。
山県の目に熱いものが溢れる。
―――よしだ・・・吉田・・・松陰先生のことか・・・
いや・・・でも・・・・・・ ―――
吉田、という地名を差したものであるなら・・・。
高杉は、吉田の地に自分を埋葬するよう遺言したのではないだろうか。
吉田には、高杉が創りあげた奇兵隊の本部があるのだ。
困惑した人々がひそひそと囁きあう。
ああ、なぜこんな時になってようやく気付いたのだろう・・・
考えてみれば、身分にも役職にもこだわらなかったあの高杉が、『奇兵隊開闢総督』と墓石に彫るよう生前から得意気に言いふれていたではないか・・・。
開闢総督として、奇兵隊とともにその地に眠ることを望んだとして、何の不思議があるのだろうか。
溢れて止まらぬ涙が、山県の頬を濡らす。
―――桜山へ行きたいのだとばかり思っちょりました・・・。
総督の役を辞してから、奇兵隊に執着する様子もなかったから
他に大切なものがいくらでもあるのだと・・・拗ねちょりました・・・―――
――― これが、高杉晋作の愛なのか・・・ ―――
何度も、何度も、裏切られたと思った。
奇兵隊も自分自身も・・・いつも、高杉にとっての一番ではないと思っていた。
そしてその位置に甘んじて拗ねていた。
そうじゃないのだと、どんなに言葉を尽くされても、きっと山県には理解できなかっただろう。まずは疑うこと・・・それが、山県の内に染み付いた性質であるが故に。
だからこそ、最期に高杉が自分を・・・奇兵隊と共に在ることを望んだ事実が山県の心を突き動かした。
おそらく・・・という仮説を捨て去ることはできないが・・・自分は高杉に愛されていたのだ。
俄には信じ難く、どう反応していいかもわかないのだが、きっとそうなのだ。
そして他の誰もが、同じように愛されていたはず・・・。
ゆっくりと、暖かなものが山県の心に染みていく。
静かに席を立った山県は、まだ涙に暮れる遺族を遺して庭に下りた。
狭い部屋にあがりきれなかった者が数人、そこで涙を流している。
顔をあげると、涙で歪んだ視界にゆったりと構えた桜山が映った。
高杉の志を貫くためにも、早急にやらねばならない事は腐るほどある。
後は自分が受け継ぐと・・・いや、不器用な自分の性質は誰よりもよくわかっている。
だが、それでも、自分にしかできぬ事が必ずある筈と、今は信じられる。
融通のきかない自分には、新しいものを作り出すことはおそらく向かない。
ただ頑に何かを守り続けることしかできないだろう。
・・・それでいい。道を切り開くのは、他の者が請け負えばいいのだ。
もしもぶつかる事があったとしても、高杉が愛したあの猛者どもならば
枷としての自分を押し破って進むはず。
それが叶わぬならば、時期尚早なのだ・・・。
持ちうる限りの全ての能力をつかって、しがみつこう。
―――山県は、そこに眠る同志たちに誓いをたてた。
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