++ 祈り++
わずかに潮の香りを含んだそよ風が、肩にかかった髪を揺らしていく。
重なりあった若葉の隙間からこぼれる木漏れ陽は、淡く輝きながら地に降り注ぐ。
鼻先をくすぐるのは、雨の気配を宿した初夏の匂い。
青々とした苗が頭をもたげる田畑。限り無く優しい、田園風景―――。
生まれ育ったこの故郷を体全体で感じ取ろうとするように、久坂玄瑞はそれら全てを大きく吸い込んだ。
この国を、守らなくては・・・、と強く思う。
そしてまた、自分はこの国に守られているのだと、そうも感じる。
このふるさとの気配に包まれているなら、どんな困難にでも打ち勝てそうな気がするのだ。
もちろん、「この国」というのは決して長州藩だけに限ったことではなく、薩摩も土佐も・・・全ての土地をひっくるめたものなのだが。
それでも、この土地の空気は特別で、自分の心の内から力を湧き立ててくれるような気がするのだ。
・・・父や母が眠る土地だからなのか。あるいは兄の理想が染み付いた土地だからなのか。
恩師の教えが芽吹いた土地だからなのか・・・
―――ふっ、と柔らかなほほえみが口元に浮かんだ。
「あいつ・・・元気でやってるかな。」
大きな瞳でいつも他人を睨み付け、口をへの字に弾き結んだ暴れ牛を思い出したのだ。
彼の名は高杉晋作―――。
長州の中では、手が付けられない乱暴者と評判がたかい。今は野山獄で捕らえられている筈だ。
京の都で政変が起こり、長州派の人々が都を追われ、逆賊のそしりを受けて・・・この数カ月の間に、信じられないほどたくさんの事件が起こった。
そのひどく緊迫した都で汚名の撤回に奔走していた時に、彼は突然、渦中の京へとあらわれたのだ。
それも「脱藩した」と臆面もなく言い捨てながら。
何も聞かずともわかるほどに怒気が身体中から溢れており、出迎えた久坂と桂は当然青くなった。
ただでさえ微妙な立場をやっとのことで保っているというのに、ここで暴れられてはたまらない。
なだめすかしてようやく国元へ送り帰した途端、家老たちの命により捕縛されて投獄されたのだ。
きっと獄の中でも怒り狂っていることだろう。
不謹慎と思いながらも、想像するとつい笑ってしまいそうになる。
―――今はそこが一番安全な場所だ。
きっと辛いだろうけれど、今はどうか堪えてくれ、高杉・・・。―――
どんな激情にかられても、まさか脱獄はできまい。
獄中にいれば、どんなに政局が悪く変わろうとも・・・責が及ぶこともない。
投獄は、それを踏まえたうえでの上役たちの差し金なのだ。
これから、彼等長州の一部の武将は、軍を率いてこの不当な処分に対する陳情を述べるべく京へ向かう。
根回しは十分にした。帝の御信頼厚い公家とも連絡がついているし、万が一の武力衝突に備えて十分に軍備も整えてゆく。
・・・勝算は、ある。何度も何度も考え、時期を見計らった挙げ句に、出した結論だ。
もしも帝に長州の潔白を信じてもらなければ、その場で割腹して無実を訴える覚悟もできている。
―――どんな犠牲を払っても、成し遂げなくてはならない時なのだ。
悲愴なまでの決意を固めたとき、どんな若者でもおそらくそうであるように、久坂もまた足が竦むような悪寒に襲われた。
身震いするような恐怖と緊張・・・もちろん今までも命を賭してさまざまな活動を行ってはきた。今さら惜しむ命もないつもりだったが、意に反して胸の動悸は激しくなっていく。
そんな久坂の高揚を、城下町を過ぎてゆく風がなだめてくれた。
そしてもうひとつ・・・。
心の底にいつまでも懐かしく存在して、いつでも迎えてくれるふるさと。
それと同じように、彼の根底を支えて背中を後押ししてくれるもの・・・
「・・・高杉。」
呪文のように呟いた名。
限りない愛しさと祈りを込めて―――。
高杉を守らなくては・・・、と願う気持ちがある。
そしてまた、自分は高杉に守られているのだと、そうも感じる。
・・・同じ未来をみているなら、辿る方法が違ったとしても構わない。
同じものをみて、その気配に包まれていたなら・・・きっとどんな苦境からも這いあがれる。
同じ精神を受け継ぎ、同じ志を持った仲間だから。
―――おまえがいてくれるなら、後は大丈夫・・・。
俺は心置きなく、信じた道を進むことができるよ。
おまえになら、後の全てを任せられるから ―――
―――恐れは消えた。
穏やかに最期を決意した若き志士が、晴れやかな顔で空をあおぐ。
もう、・・・死は怖くない。
「入江!!」
田舎道の向こうからやってくる入江の姿に気付き、久坂は爽やかな笑顔をうかべて駆け寄った。
「出陣が明日に決まったよ。それを伝えようと思って。」
入江もまた、いつもと変わらぬ笑顔で告げる。まるで日常の会話のように。
「そうか、よかった。そうと決まったら支度もある・・・行こう!!」
迷いから解脱した者だけが持つことのできる澄んだ瞳を輝かせて、2人は少年のように走り出した。
もう・・・何者も、彼等をとめることはできない。
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