++ 軍服に刻んだ誓い ++
―――木戸邸を訪れたのは、昼過ぎ頃だったろうか。
既に陽は落ちて、閉めそびれたカーテンの合間から覗く景色はすっかり夜景に変わってしまっている。
体が埋もれてしまいそうなソファーに腰掛けたまま背筋を延ばし、山県有朋は冷えてゆく紅茶の水面を見つめていた。
対面で鬱々と話し続けているのは、彼らの兄貴分でもあり、今では維新の立役者と賞される木戸孝允である。
この頃すっかり笑わなくなった彼は、まるで亡霊のような青い顔をして、やつれて落ち窪んだ目をどこか遠くへ向けたまま、いつも国の行く先を憂いている。
その苦悩のおかげで眉間に幾筋もの深い皴が刻まれてしまったと、知人たちはこっそり噂しあっていた。
今、山県の目の前で溜息交じりに語っているのも、日本国の暗い将来についての見解だった。
・・・そこまで深刻に悪い方向にばかり考える必要はない、と
お気楽な仲間たちは笑うけれど、山県にはそう考えずにはいられない木戸の気持ちが、少しだけわかるような気がしていた。
薩摩と会津に煮え湯を飲まされた七卿落ち、力及ばずにたくさんの仲間を死なせるはめになってしまった禁門の変・・・
それだけではなく、この維新を遂げるまでの間に数えきれない程の同士が死んでいった。
それを、木戸は為す術もなく、ずっと見つめてきたのだ・・・。
流れたのは、仲間の血だけではない。
戊辰の戦いでは、信じられないほど多くの犠牲を強いることとなった。
その、積み上げられた無数の屍たちの上に、今の日本国はたっているのだ。
それぞれの意志に関わらず否応なく国の礎となっていった彼らに、恥ずかしくない体制を創っていかなくては・・・と、脅迫観念にも似た思いに取りつかれているのだろう。
国を動かすという事は藩政をとりしきるよりもはるかに難しく、
昔語っていた理想と現状のへだたりを思えば気楽に笑ってなどいられない。
共に志士活動に身を捧げた仲間達とみていた未来は、こんな国ではなかったのだから。
明確な理想を掲げてきただけに、木戸がその落差を自分の力不足と認識して傷つき悩んでいたとしてもなんの不思議もない。
・・・その姿勢を、潔く真正直だと評価しているのだが、逆に嘆くばかりの態度が歯痒くもある。
黙って木戸の言葉のひとつひとつに頷きながら、山県は考えていた。
・・・時山が生きていたら、今の政府を見て何と言うだろうか。
久坂や高杉は、笑ってくれるのだろうか。
自問しても答えなど出ない。それはわかりきった事・・・。
それでも禅問答を繰り返すようなそんな文人らしい習性は、山県にはない。
すっかり体に馴染んだ羅紗の軍服をそっと撫で、唇を噛む。
家柄があるわけでも、人より学問に秀でていたわけでもない。
だから、貧しい生活から這い上がるために、戦いの中に身をおいてきた。
何も持っていないその身ひとつで生きていく道は、他になかったのだ。
・・・自分には、他に何の取り柄もない。
ひどく現実的な思いが胸を突く。
自分には、政治の才覚は備わっていない。木戸のように行く末を思い悩んで方策を打ち出す、などというようなことは到底できないだろう。
だから・・・。
山県は静かに席を立った。
―――できる事をやろう。ここに、自分のできる事はない。
できぬ事に手を出して、「今」を壊してしまっては元も子もない。
今はただ、自分にできる事・・・自分の範疇をしっかり束ねて基盤を作り、それを全国に浸透させ、いずれ来る軍部の出番に備えて力を溜めることに専念すればいい。
思い悩んで千々に乱れていた考えが、ようやくまとまった。
後ろを振り返り、悔やむのはいつでもできる。そう、今際の際にでも嘆けばいいのだ。
夢を追うような余裕もなく、ただ現実にだけしがみついてきた半生。それが今の自分を形作る財産であり、すべてなのだ。
奇麗事など語れない、いつになっても変わらないそんな自分の土臭さに苦笑を浮かべながら
現実主義の軍人は、疲労の色をみせはじめた木戸にむかって丁寧に辞去の挨拶をした。
妙に軍服に似合うようになったその狭い肩の後姿を見送りながら、
木戸は新たな不安が胸に波紋を呼び起こすのを感じていた―――。
END.
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